五木の子守唄は子守唄ではない!?五木村の守り子唄の悲しいルーツ話

五木の子守唄(いつきのこもりうた)は

熊本県球磨郡(くまぐん)五木村に伝わる子守唄です。

 

長い間、

地元の住民か民謡の専門家しか知らない曲でしたが

現在では

五木地方で伝承されている

「正調・五木の子守唄」といわれる2拍子のものと、

1950年(昭和25年)

作曲家・古関 裕而(こせき ゆうじ)が

熊本・人吉(ひとよし)地方で唄われていた民謡を

採譜・編曲した「五木の子守唄」の3拍子のものが

多くの人々に愛唱されるようになり

いずれも

熊本県を代表する民謡として知られています。

 

実は

この「五木の子守唄」は、

悲哀が漂う子守唄ですが

どの歌詞が「元歌」なのか不明で、

謎多き子守唄でもあります。

子守唄の伝承

球磨郡五木村の「五木の子守唄」は

伝承者により様々な歌詞が伝えられており

長い時間をかけて

多くの人々の思いが積み重ねられてきたため

「元歌」は不明とされますが

記録されているだけでも

70~80程も歌詞があると言われていて

五木村以外の地域にも散見されています。

 

また、

歌の発祥地や伝承地は様々な説がありますが

五木村の子守唄は

山村の厳しい暮らしの中から生まれたもの、

長く唄い継がれてきた歴史があり

背景には

貧しさゆえ、子どもながらに

子守り奉公に出されたため

様々な地方で広がり

子守り生活の辛さから「口ずさみ」が歌詞となり

切ない心情が子守唄の歌詞となって

口ずさみの歌詞が、散乱したのもと思われます。

子守唄と守り子唄

日本の民謡や童謡などでは

「子守唄」と「守り子唄(もりこうた)」があり

本来の

「子守唄」は

子供を寝かしつけるための歌。

 

対して

「守り子唄(もりこうた)」は

子守をする少女が、

自分の不幸な境遇や生活、仕事の辛さなどを歌詞にして

子供に唄って聴かせ、自分を慰めるための歌。

 

五木の子守唄は、

子守娘の気持ちを唄った、守り子唄のひとつです。

五木村

源平の戦いに敗れた平家の動向を監視するべく

五木村に源氏が住み、

これらの源氏の子孫を主として

33戸で構成される

33人衆と呼ばれる地主(よか衆、だんな衆)が土地を所有し、

それ以外は、ほとんどが

「名子(なご)」や「勧進(かんじん)」と呼ばれる

小作人たちで

地主から家、屋敷、土地、田畑、山などを借り受け

林業や、焼き畑農業を営み

「農奴」として暮らす最低の生活でした。

子守奉公

五木村の山深い里の暮らしの営みは厳しく、

娘たちは7、8歳になると、

食い 扶持(くいぶち)減らしのために

人吉や八代地方の豊かな家に「子守奉公」に出されます。

 

それも奉公とは名ばかりであって

「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という

約束が普通だったといいます。

 

食べさせてもらうといっても、

家族とは違う粗末な食べ物しか与えられず、

子守りだけでなく、さまざまな雑用をさせられ、

女の子ですから、

無道な行為をされることもあったようです。

五木の子守唄の真相

こうした

悲しい諦めや小さな抵抗が唄となり

仕事の辛さや望郷の思いを即興的に歌うことによって、

わずかな慰め(なぐさめ)を見出していたようです。

 

こうして成立したのが、

「五木の子守唄」です。

赤ん坊を眠らすための唄ではなく、

子守り奉公をしている、娘たち自身の「嘆きの唄」であり

聞かせる唄ではなく、

ひとりで寂しく「口ずさむ唄」という歌が

「五木の子守唄」の真相です。

それから時は現代へ

伝承されてきた歌詞は、

確かに、悲しい内容の歌になっていますが、

それは今では遠い昔のこと・・・

五木村の悲惨な状況は、

敗戦後、GHQ(占領軍総司令部)の指令で実施された

「農地改革」によって解消されました。

 

新たに、

川辺川ダム計画が始まり

五木村は、

いつの日か、村の中心部がダムの底に沈む事になってしまいました。

五木の子守唄

様々な歌詞が現代まで伝わっており

どれが1番で、どれが2番だという順番もなければ

人や地方により歌詞や言葉も違い

即興的に歌われだしたものだと言われています。

五木の子守唄の一例です。


おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんと
盆が早よ来りゃ 早よもどる

私たちはお盆までの約束で奉公している。
盆が過ぎれば年季が明け、もうこの家に居ない。
盆が早く来れば、故郷に早く帰れる。


おどまかんじんかんじん
あん人たちゃよか衆(し)
よかしゃよか帯 よか着物(きもん)

私たちは身分の低い乞食のようなものだ。
あの人たちはお金持ち、
あの人たちはみんな立派な帯や着物を持っている。


おどんが打っ死(ち)んだちゅうて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅきゃ
裏の松山ゃ 蝉が鳴く

私が死んだからと言って
誰が泣いてくれましょうか。
裏の松山で、蝉が鳴くだけ。


蝉じゃごんせぬ
妹(いもと)でござる
妹泣くなよ 気にかかる

蝉だけではありません。
私の妹です。
妹よ、泣かないでおくれ
心配でならないから。


おどんが打っ死んだら
道端(みちばちゃ)埋(い)けろ
通る人毎(ご)ち 花あぎゅう

私が死んだならば、
道端に埋めてください。
通る人たちが花でもあげてもらえるでしょう。


花は何の花
つんつん椿
水は天から 貰い水

花は何の花でもいいが
道端にある椿でいい。
水はなくても
天から雨が降ってくれるから。

 

 

 

一家を養うためには、

幼い子どもすら稼ぎに出された時代、

五木村に限ってではありませんが

7、8歳~10歳前後の子どもにとって

毎日の生活は、

きつく、辛く、悲しく身を裂かれる想像を絶する中

どんな思いで故郷を見つめていたのでしょう。

 

五木の子守唄は

当時の

子守り子たちの切ないまでの

心境や生活が伝わる悲哀の唄です。

 

五木村も、

水没する集落は高台に造成された代替地へ移転も終わり

「五木の子守唄」発祥の地として

観光地にもなっていますが

遠からず

昔の故郷は、ダムの底に沈むことになっている事も忘れないで・・・

最後に

私が小学生の頃

音楽の授業の中で

意味知らずに歌っていた歌であり

周りの皆も、歌っていたわけというか

授業という名の元に歌わされていたわけで

大人になって意味を知ると、

自分が情けないというか

子守り奉公の娘たち自身の嘆きの唄を

あの頃歌ったあの歌は何だったのかと

今更思うわけで

もしかすると

故郷に帰れない子どもも居たかもしれない。

 

当時の五木村の少女たちは

今ではいないかもしれないが

自分の故郷がダムの底に沈むかもしれないと思うと

やるせない気持ちで一杯だ・・・

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