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松本明子は問題発言で転落!苦節37年で初コンサート!家族や経歴と裏話

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こんにちは(こんばんは)!

今回ご紹介するのは、松本 明子(まつもと あきこ)さん。

現在の活動ジャンルはタレント、女優ですが元祖バラエティアイドルと言われ活躍していますがお若い方は、ご存じないかと思いますが、デビュー当時は昭和のアイドル歌手でした。

アイドルとしてコンサートのステージに立つことが大きな夢でしたが、ある事件をきっかけに謹慎処分となりバラドルに路線変更して頑張ってきました。

松本 明子さん、なんと54歳にして「皆さんに恩返ししたいという気持ち」でデビューから苦節37年目にして初のコンサートが決定。


提供:松本 明子さんTwitterより引用

コロナ化である今だったことからコンサートが企画された経緯もあり、とにかく明るい昭和のアイドル、松本 明子さんの現在までを探っていきたいと思います。

松本明子さん 問題発言で転落

松本 明子(まつもと あきこ)さんの、この問題発言はこの先も永遠に語られる話です。

1983年(昭和58年)17歳、
清純派アイドル歌手としてデビューします。


提供:ワタナベエンターテインメントより引用

1982年のデビューは
シブがき隊
中森明菜さん
小泉今日子さん
堀ちえみさんなど「花の82年組」と呼ばた年です。

1983年は
「アイドル不作の83年組」と呼ばれ、余りパッとしない年でした。

松本 明子さんを追い込んだ「四文字言葉絶叫事件」は、1984年3月31日の深夜に起きます。

『オールナイトフジ』1周年記念
および
『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』
10周年記念の共同スペシャルのテレビ・ラジオコラボ生放送番組で、新アシスタントとなった松本 明子さんは、笑福亭鶴光さんと片岡鶴太郎さんに「彼氏の名前をバラされたくなかったら
カメラに向かって『お〇〇こ」と言ってこい」
「一躍有名になれるぞ」とそそのかされたのです。

片岡鶴太郎「アッコ、お前、今、
      付き合ってるのいるだろ?」

松本明子 「えっ!?」

片岡鶴太郎「俺、知ってるぞ!」

松本明子 「ダメ!まって~~」

笑福亭鶴光「これは聞いてみよう!」

片岡鶴太郎「ウチの近くで…彼が働いてたの。
      それが芸能界にデビューしまして…」

松本明子 「ダメ!ダメ!なんでもします!」

笑福亭鶴光「なんでもする?
      ほなカメラに向かって四文字言え!」

松本明子 「お〇〇こ!」

「お〇〇こ」って3回
言ってしまったのです。
今も当時も、アイドルに彼氏がいれば話題になるのは同じで、本気に彼氏をバラされることを恐れて「だったら言っちゃおうか……」という思いで叫んだ後、スタジオからつまみ出されてしまった松本 明子さんは「18歳で干される」という最年少干されアイドルとなりました。

翌日新聞の朝刊の芸能面ではなく社会面に「新人アイドル歌手が生放送中に放送禁止用語生放送で発言」と書かれるほどの騒動になりました。

以後、半年間タレント活動を自粛し謹慎させられることになりました。

事実上は2年間にわたって、テレビ全体から干されてしまいアイドルから転落いてしまいます。

1984年8月に
きっかけとなった「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」に復帰し、公開録音イベントが行われたましたが、またもや放送禁止4文字を、客全員と一緒に叫ぶ羽目になり、後日のオンエオンエア時には当然その部分に自主規制音(ピー音)が入れられました。

当時、
交際していた男性アイドル(加藤○○さん)はバイセクシャルとして有名な人物だっただけに
知られたくなかったのでしょう。

これが消すに消せない、語り継がれる有名な「放送禁止用語」を叫ぶという通称「4文字言葉事件」「松本明子事件」です。

※音が出ますので音量に注意して下さい
当時の問題発言映像

この騒動の「主犯格」とされた鶴光さんは、その後の長い間に亘り、生放送の仕事が中々回って来なかったようです。

松本 明子さんにはお気の毒ですが、まさしく昭和の深夜放送ならではのエロ路線にはまってしまったのです。

松本 明子さん曰く、まして新人ですから「言った方が良いのか悪いのか、今よりアイドルとして売れるのかなとか」と悩み「この4文字を言うと面白いぜーみたいな。のせられちゃって・・・」と、当時を振り返っています。

また
地方によって様々な呼び名がありますから、香川出身の松本 明子さんには知らない言葉で意味が分からずに言ってしまったらしいとのことです。

ともあれ、「不作の83年組」というレッテルが人気を博したいとの思いが垣間見えますね。

仕事は謹慎になるし、学校に行くのも恥ずかしいし、女子からの無視で女子風呂に入れさせてもらえなかったり、寮でも居場所がないほどで、駅のベンチで過ごしたり公園のトイレで寝ていたりという生活の中、スーパーのケーキコーナーでアルバイトをしていました。

松本 明子さん20歳位のとき
「ABブラザーズ」としてブレイクしていた、後輩の中山 秀征(なかやま ひでゆき)さんが
「ネエさん、よかったら、俺もいるし、バラエティー班に来ませんか?」と導いてくれて「バラドル」として扉を開きます。


提供:中山秀征さんTwitterより引用

ちなみに
「小泉今日子退場事件」というのもあり
女性ゲストが来ると、何かしらいたずらを仕掛ける笑福亭鶴光さん。

笑福亭鶴光さんにとってはいつものこと。

小泉今日子さんがゲスト出演した際
「楽曲」の紹介をさせ、イントロだけったりアウトロだけったりと、一部分しか曲が流れず「もっと色っぽく言うてん」などと要求して、なかなか曲が流れないのです。

曲が流れてもCMになってしまう、いたずらに「こんな番組2度と出ない!」と叫んで放送中にスタジオを退出してしまったといいます。

実際は
小泉今日子さんだけでなく、楽曲はそのCM後にフルコーラスで放送されています。

エピソードが付き物ですね。

松本明子さん デビューから苦節37年で初コンサート!

松本 明子さん
1983年(昭和58年)清純派アイドル歌手としてデビューし、この度37年目にして「松本明子 resents黄金の80年代アイドルうたつなぎ~うれしなつかし胸キュンコンサート~」と題して
初のコンサートが決定しステージで歌うという夢が実現。

「うれしなつかし」と「胸キュン」の言葉通り、初のコンサートができることになって、当時のマイクを持った光景がよみがえり夢が叶い本当に嬉しい事でしょう。

きっかけは
2020年4月、コロナ化によるステイホームが続くなか「少しでも楽しめるよう何か出来ないものか」と思いデビュー曲の「♂×♀×Kiss(オス・メス・キス)」をアカペラで歌った動画を
『#アイドルうたつなぎ』として、インスタグラム(4月10日)とツイッター(4月11日)に投稿しました。

まずは
同期の「不作の83年組」に相談し、デビュー曲を歌ってもらうよう協力してもらい、それがバトンリレーのようにどんどん繋がり、さらに昭和のアイドルだけでなく、平成、令和のアイドルにまで繋がって豪華な方々が参加しSNS上で大反響となりました。

「みんなが元気になれるように」と、先頭をきって始めたわけですが逆に、松本 明子さん自身がみんなから元気や勇気をもらって癒された気持ちになり、その「みなさんへの恩返しをしたい」という意味を込めてBSフジの協力を得て企画され、現実となった今回のステージ。


提供:松本明子さんTwitterより引用

東京・かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールにて、2021/1/16(土)開催

出演者は
布川 敏和さん(82年デビュー)
森尾 由美さん(83年デビュー)
浅香 唯さん(85年デビュー)
西村 知美さん(86年デビュー)。

松本 明子さん
今だから言える昭和アイドルの裏話や、テレビで言えないようなネタ話も考えているようで、スペシャルトークも楽しみにしてい欲しいといいます。

今後の抱負は、今回限りだけでなくアイドルうたつなぎコンサートとして昭和のアイドル、平成のアイドル、令和のアイドルがどんどん繋がって定期的に開催していきたいと願っているようです。

益々、夢が大きく膨らんでいますね。

「松本明子という名前を覚えてもらうためなら何でもやるぞ」と、頑張ってきた甲斐が報われ
今後も歌える場がひろがっていくことでしょう。

松本明子さんの経歴や家族は?

松本 明子(まつもと あきこ)

本名:平井 明子(ひらい あきこ)

生年月日:1966年4月8日(54歳:2020年時)

出身地:香川

血液型:A型

職業:歌手・バラエティタレント

特技:茶道、ピアノ、節約料理、
さぬきうどん作り、手芸

香川と言えば
讃岐うどんやアナゴが有名です。

趣味:料理、節約

事務所:ワタナベエンターテインメント
(旧:渡辺プロダクション)

兄妹:10歳上の兄

バラドルまでの経歴

母親には、自分の憧れていた宝塚の夢を娘に託すかのように3歳頃からピアノ、バレエ、茶道、日本舞踊などあらゆる習い事を習わせられました。

父親には仕事から帰ると、地元の繁華街の飲み屋に連れて行かれ、歌を歌わせられてました。

小学生の頃から歌が上手いと評判で、のど自慢大会に出たり、いつのまにか地元の広告やテレビCMに出たりしていました。

中学に入る頃には歌手になる夢が芽生えます。

高松市立屋島中学校を卒業した15歳の春
瀬戸大橋もなかった時代、宇野駅と高松駅を結ぶ運航されていた「宇高連絡船(うこうれんらくせん)」に乗り盛大な見送りを受け1982年3月25日、歌手を志して上京。

堀越高等学校普通科に入学

1982年、16歳
昭和を代表する歌手デビューがメイン企画のオーディション番組『スター誕生!』の第44回決戦大会に合格します。

この時の出場者には本田美奈子さん、徳永英明さんがいましたが、不合格となっています。

そして、渡辺プロダクション(当時名)に所属し、東京・国立のタレント寮に入り1年ほどのレッスンを受け堀越高等学校芸能コースに編入。

1983年5月21日、高校2年17歳
VAP(映像・音楽ソフトメーカー)から「♂×♀×Kiss(オス・メス・キス)」でアイドル歌手デビュー。

しかし
松本 明子さんはアイドル歌手でありながら、なかなか人気が出ずに低迷し1984年の放送禁止用語事件で、追い打ちをかけるように一時活動停止で仕事も激減し売れっ子のクラスメイトがいる中、高校在学時は毎日学校に通って芸能コース異例の皆勤賞。

ディスコグラフィーシングルとしては

発売日タイトル
1st1983年05月21日♂×♀×Kiss
2nd1983年09月21日キャラメル・ラブ
3rd1984年06月10日真夏のギャルソン
4th1989年11月21日この恋いけませんか
5ht1990年10月21日シンジナサイ!~学生節より~
6th1994年03月21日たとえば、ずっと…
7th1998年02月18日soon
8th1999年05月12日ステラ

1985年、映画で女優デビュー(18歳)
「ユー・ガッタ・チャンス」2月9日公開
「タンポポ」11月23日公開(19歳)

1986年(20歳)、テレビドラマ初出演
テレビ朝日、月曜ワイド劇場の
「女が会社に辞表を書くとき」

1987年(21歳)
フジテレビ系連続テレビドラマ
「アリエスの乙女たち」端役で出演。

日本テレビ系の若者向け情報バラエティ番組
「うるとら7:00」に出演しこの出演を機に
後に、「進め!電波少年(1992年~1998年)」で、司会として出演することになり大ブレークします。

1988年
フジテレビ系象情報番組
「お天気チャンネル」お天気中継担当

1991年デビューから9年(25歳)
日本テレビ系バラエティ番組
「DAISUKI!(ダイスキ)」でレギュラーMCに抜てき。

1992年
日本テレビ系バラエティー番組
「進め!電波少年」で司会を務めテレビ史上類を見ない、バラエティ番組として幅広く認知され
抗議の的となるお騒がせ番組ともなり、「アポなし」を世間に定着させた伝説的な番組として活躍。

自衛隊入隊や旅ロケで、25センチ位のゴキブリを食べるなど異様な様々な仕事をしてきて日本テレビの1990年代黄金期を支えた番組に貢献し、過酷で多くのアブナイ企画にチャレンジしてきました。

松本 明子さんの快挙は
1995年2月「進め!電波少年」のロケで、当時紛争地帯であるパレスチナ国の中心都市ガザ地区へ向かい、パレスチナ初代大統領を務めた「ヤーセル・アラファート議長」と日本の芸能人、松本 明子」が初めて直接接触した人として話題となりました。

同じく1995年、
日本テレビ系テレビドラマ
「たたかうお嫁さま」で主役主演
松本 明子さんの連続ドラマ単独初主演作です。

「ものまね王座決定戦」では「女四天王」と呼ばれ
以降、
数多くの番組に出演し、井森美幸さんや森口博子さんに並ぶ、元祖バラドルとして活躍し君臨していくことになります。

家族

松本 明子さんの実家は香川の高松市屋島。

曾祖父は三重県出身で薬売り

祖父は香川県に赴任し陸軍大佐の連隊長

これで、松本 明子さん出身の香川県との縁が繋がりました。

母方の祖父は丸亀市の初代市長

父の松本昌昭さんは香川県庁に勤務した後、民間会社の四国支社長

母の千恵子さんは芸者をしていました。

10歳年が離れた「卓」さんという、お兄さんがいます。

松本 明子さん
1994年に両親を東京に呼び寄せたことで、実家は空き家のままとなり「遺言で実家を頼む」という思いから頑張って実家を管理していましたが、体力的にも、限界を感じ罪悪感を感じながらも売却を決意。

松本 明子さんは
1998年に俳優の本宮 泰風(もとみや やすかぜ)さんと結婚、
“本名:平井 康之(ひらい やすゆき)”さん。

俳優の本宮 泰風さんと言えば
実兄は原田 龍二(はらだ りゅうじ)さん
”本名:平井 雅章(ひらい まさあき)”さん。

原田 龍二さんにとって、松本 明子さんは義妹になりますが年上なので、「姉さん」と呼んでいます。

この平井兄弟は共に、芸能界きっての喧嘩最強の男として有名ですね。

松本 明子さんの夫である、本宮 泰風さんは数々のテレビドラマ、映画に出演し、特にVシネマでは「ネオVシネ四天王」と呼ばれています。

本宮 泰風さんです。
※音が出ますので音量に注意して下さい


提供:山口祥行(俳優・声優)さんのTwitterより引用

1996年
松本 明子さんと原田龍二さんが共演していた「グッド・ラック」のドラマの現場に連れて来られたのが本宮 泰風さん。

松本 明子さんと本宮 泰風さんがご対面することになり、松本 明子さん一目惚れで出会ったその日に「ウチに来る?」と言いだし、松本家の両親と団らん。

その後
本宮 泰風さんも「ウチにも来ます?」と本宮家の両親と団らんし、両家の実家に行って顔合わせを済ませ恋愛がスタートしました。

時が過ぎ
プロポーズはさすが姉様の松本 明子さん「結婚する気があるんですか、ないんですか?」と詰め寄り本宮泰風さんは「結婚させて頂きます」と答え1998年3月16日、入籍。
松本明子さん、32歳の時です。

2000年5月に長男を出産し
相当な難産だったようで名前は龍聖君です。

溺愛し過ぎて
「僕の人生をママに決められたくない!」とか「指1本触れるな」とか言われてショックでしたが、自然体がいいんだと気付き黙って見守って愛することだけに専念しています。

仲睦まじい(なかむつまじい)家族ですが
松本 明子さんは洋服など家族内で着まわすほど、芸能界きっての「ドケチ」とも言われています。

幼少時から
祖母や母親が節約家という生活環境で育ち、当たり前に引き継いでいるだけです。

浴槽のお湯張りは13cmまでとか、高校時代のアンダーウェアを今でも履いているとか、アンダーウェアが破れていてもお気に入りだからと使い続けているとか、それでいて家族も不満なく
協力してくれているというので、それはそれでそれぞれ。

ただのケチではなく、人のためには惜しみなく使うようで「倹約家」なのです。

まとめと松本明子さんの裏話

松本 明子さんのアイドルデビューから、問題発言で転落し苦節37年で初コンサートが出来たことや経歴や家族など書いてきました。

もう少し探ってみると
1984年
所属事務所の渡辺プロは「10年に1度の逸材」と高く評価した、吉川晃司さんのデビュー宣伝費は1億円で渡辺プロの金庫には3億円の現金しかなく、チョベチョベの松本 明子さんに「ボロが出るからしゃべるな」と注意されていたといいます。

1986年、
プロ野球の巨人「原 辰徳」さんの結婚で世間を驚かせます。

原辰徳さんの結婚相手は、松本 明子さん。

同姓同名で芸能界で干されていた時期、松本 明子さんの親戚は大喜びで「よくやった」「でかした」と連絡をもらいびっくり仰天でした。

1989年
ニッポン放送、生放送ラジオ番組の「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」での事。

放送作家の高田 文夫(たかだ ふみお)さんは、アシスタント役には「松本 典子」さんを希望していましたが、本番直前スタジオにいたのは松本 明子さん。

高田 文夫(たかだ ふみお)さん
ひっくり返っるほどビックリでしたが、スタッフの単純な聞き間違いで高田さんは「まぁいいか」とスタートして以来、松本 明子さんと名コンビでニッポン放送のお昼のワイドでは最長番組となりました。

「まぁいいか」って「間(ま)がいいのです」
どのように結果は付いてくるかはわかりませんが、「松本 明子」さんで正解だったと思いますよ。

2000年後半
汚職で逮捕された官僚の奥様が接待漬けとなり、贈賄業者とゴルフをする際の偽名が「松本 明子」で迷惑な話。

数ある中、最後に極めつけともいえる行動では、ある有名人のファンクラブ事務所に勝手に潜り込んで、電話番をしたことがあって完全無欠のドン引きですね。

昭和の『スター誕生!』は
1983年9月25日、12年間の幕を閉じ歌手になる道しるべの場を失って、時代の流れは漫才ブームとなっていったのです。

松本 明子さんの更なる歌に期待しバラドルの神髄は見逃せません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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