行事

女子大生の日は8月16日、日本初の女子大生が誕生し道を切り拓いた深い意味のある日

行事

女子大生の日は

1913年(大正2年)の8月16日

東北帝国大学(現:東北大学)において

入学試験に合格した

女性3人の名前を発表したことに由来します。

 

日本で初めて「女子大生」が誕生したことを記念して

「女子大生の日」とされています。

 

100年以上も前のお話で

女性が大学に通って勉強するなどということが

許された時代ではありませんでした。

帝国大学

当時の大学の入学は9月でしたから

8月に合格発表があったわけです。

 

1877年(明治10年)設立の東京

1897年(明治30年)設立の京都に次ぐ

国内で3番目となる東北帝国大学は

1907年(明治40年)に創設され

まず

北海道の札幌農学校を改称し

東北帝国大学農科大学が発足した後

仙台に理科大学を発足させるための準備に入りました。

 

準備段階から関わった

澤柳政太郎(さわやなぎ まさたろう)を初代総長として

1911年(明治44年)

東北帝国大学理科大学(仙台市)が発足しました。

 

同年

九州帝国大学が設置され

1918年(大正7年)には

東北帝国大学農科大学は、本学から独立して

北海道帝国大学農科大学として設置されました。

東北帝国大学

当時の帝国大学は、

「女人禁制」であり

旧制高等学校を卒業した男子学生のための帝国大学で

女子は大学教育から疎外されていて

大学へ入学することは基本的に閉ざされていました。

 

帝国大学令には

女子の入学を禁じている訳ではありませんでしたが

入学資格が旧制高等学校卒業生に限られていたため、

現実には女子に入学する道はありませんでした。

 

男子校たる旧制高等学校

(現在の大学教養課程に相当)卒業後は

志望する学科を選り好みしなければ

帝国大学への進学が保証されていたので

旧制高等学校に入学した段階で

社会的にはエリートとしてみなされていました。

 

従来

東京・京都の両帝国大学は入学資格を

旧制高等学校卒業者に限定し門をかたく閉ざしてのに対し

3番目の

新しい帝国大学である東北大学が

その存在感を発揮していく為には何が必要か

旧制高等学校出身者以外に対する

「門戸開放」の方針を打ち出しました。

門戸解放

東京帝国大学が「官僚養成」

京都帝国大学が「学問」の主義に対し

東北帝国大学は「研究」重視の主義を示し

「研究第一」「門戸解放」」「実学尊重」などが大学理念です。

 

東北帝国大学は

1911年(明治44年)第1回入学生の募集に際して

入学資格を

欠員がある場合にと限定をしているものの

高等師範学校(教員養成機関)や専門学校卒業者などや

中等教員免許状所有者にまで拡大し

(中等教員免許状は

 師範学校・中学校・高等女学校の教員免許状であり

 同免許状を所持する女子にも入学資格がある事になる)

誰でもと言うと誤解になりますが

大学所定の必要な学力、実力さえあれば

学歴も、学校歴も、性別すらも不問に付し

他の帝国大学では実施されていなかった入学資格の

門戸の開放を行ないました。

 

これ以降

各種の専門学校卒業生や独学で受験する生徒など

または

軍事的な時代であったために

軍事教練に反対し退学を余儀なくされた生徒など

幅広い志願者の救いの場となりました。

女子学生募集の動き

1912年(大正元年)11月には

東北帝国大学の澤柳総長は

「東北帝大で化学をやりたい女性が一人いるので

来年試験の上で入学させる」と述べています。

 

女性が一人とは

日本女子大学校(現:日本女子大学)卒業生だと思われますが

大学と言っても専門学校のようなもので

戦前における女子高等教育は

大学令による正式な女子のための大学は存在しません。

 

その後

1913年(大正2年)5月6日

東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)は

東北帝大への女子入学の許諾について

大学側の意向を事前に確かめようと内々に手紙を送り

大学側は、

「あくまで

 入学試験及び選抜試験の上で許否を決定する」と回答し

全国に先駆けて女子に東北帝大の門戸を開きます。

 

すでに前年のうちには女性の受入が検討され、

応募者確保のための動きが始まっていたようです。

 

5月9日

沢柳総長は

京都帝国大学の学校内騒動の鎮圧ため

京都帝国大学総長と任命され

後任として

北条時敬(ほうじょう ときゆき)が第2代総長として就任します。

 

彼も日本を代表する教育者であり

沢柳総長の「門戸開放」の方針を受け継ぎ

8月

第3回入学生の募集を行いました。

 

新設大学として

より多くの志願学生を集める必要がある大学自身の事情や

帝大進学を熱心に勧めキャリアアップを図りたいという

女子たちの在籍している女学校側の事情など重なり

女子の門戸開放の影響に他ならないのですが

応募者には5人の女性がいました。

女子の大学受験

実際に出願手続きをとったのは

〇江沢駒路 物理学科志望

(東京女子高等師範学校附属高等女学校助教諭・30歳)

〇牧田らく 数学科志望

(東京女子高等師範学校授業嘱託・24歳)

〇黒田チカ 化学科志望

(東京女子高等師範学校助教授・29歳)

〇丹下ウメ 化学科志望

(日本女子大学校助手・40歳) の4名です。

 

8月8日から12日にかけ入学試験を行い

当然ながら

旧制高等学校卒業者、

旧制高等学校に準じるレベルの学校卒業者には

優先入学の権利があったため

彼女たちに残されていたのは、その「残りの枠」です。

 

東京女子高等師範学校や日本女子大学校は

東北帝国大学が指定した学校ではなかったので

応募資格は「中等教員免許状所有者」での試験となり

まず、

8月8日に体格検査

9日に一次試験

「入学試験=外国語試験」の

大学で勉強していく基礎的学力が

身についているかどうかを試す試験

 

10日から12日まで二次試験

「選抜試験」となる

定員を超えた受験者の中から合格者を絞り出す試験で

筆記試験に加え、

各学科の担当教授自らが行う口頭試問がありました。

一通の手紙

試験開始翌日の8月9日

文部省専門学務局長から

北条総長に宛てた一通の質問状が送られて来ました。

 

「・・・元来女子を帝国大学に入学せしむることは

 前例これ無きことにて

 頗る重大なる事件にこれあり大いに講究を要し候・・・」と

数名の女性が受験したことにつき

大学側の真意を質す書簡であり

文部省としては

女性志願者は

「撰科」ならともかく「本科」への入学は ないはずであり

正規の学生としての入学は

重大なる事件で容認できないという内容で

大学側の意見詳細を確認したいという問い合わせの手紙です。

女子大生誕生

大学側は

この手紙を無視するかのように

8月13日付けで

男性合格者35名と

江沢駒路を除く女性3名の合格者名簿と共に

入学許可の告示を発表されたき旨として

「官報原稿」を文部省に送付しました。

 

合格者本人達にも

入学許可通知及び入学宣誓式の案内状を発送し

しばらくの間、

文部省に正式な回答を出しませんでした。

 

8月16日

女性3人の合格が新聞で一斉に報道され

日本初の女子大生が誕生し社会の注目を浴びました。

 

まさしく

厚い「門戸」が初めて女性に開かれたのですが

好意的な意見もあれば批判的な意見も多く載せられ

東北大学内でも

在学中の男子学生たちの反対意見が上がり

実際

女性の大学進学は手放しで歓迎される様な雰囲気ではなく

関係者にとっては衝撃的な出来事でした。

文部省の決断

文部省は

聴講生としての扱いのみと合点していました。

 

大学側の

「本科生」としての試験を実施し、結果を本人に通知すると共に

官報原稿を送付したことに対し

文部省は大学に問い合わせますが

大学側は「本科生として扱はれたし」との姿勢を示します。

 

文部省は

今や発表せざる訳にもいかず遂に余儀なくされ

認めざるを得ないものと判断し特例として処理し

8月21日付

「官報」に合格者が公表され問題が決着しました。

 

結局

大学側は9日付けの一通の手紙に対し

24日まで正式な回答をせず

事態が決着した後の8月25日になって

北条総長が文部省に出頭して

文部次官と面談し事情を説明した旨が

その一通の手紙に記されています。

 

さらに上部には

「完結」と記されています。

以降、

女子高等教育をめぐる時代状況が

東北帝大門戸開放の連続性を閉ざすことになり

女子入学は一時中断しますが

1922年(大正11年)になって

2名の女性が聴講生として数学科に入学、

翌年にはこの2人は本科に編入し

3名の本科生(理学部数学科1、法文学部2)と

1名の聴講生(数学科)が新たに入学します。

 

そして

女性の入学が続きます。

澤柳政太郎はなぜ女子学生を

澤柳政太郎は東北帝大総長就任以前から

女性への門戸開放の考えが形成されていたようですが

男女共学主義を採用したのではなく

東北帝国大学への女子学生の入学許可は、

単なる女子高等教育の推進でもなく

女性を入学させるのが目的であったのでもありません。

 

女子であるからといって拒むに及ばないし

ふさわしい学力をもつ者に修学の便を与えるものとし

女性に対する門戸開放は、「一大英断」でしたが

新しい研究第一主義の新生東北帝国大学としての

制度整備中の一つの措置であったということです。

 

澤柳は

19世紀から20世紀にかけての

欧米の大学教育は、

女性に対する大学教育の開放が進んで

当時の世界の潮流であることを知っていました。

 

澤柳のもとには

多くの海外の教育情報が入っており

自らの意思で国際的な動向の中でとらえ

欧米や日本の女子高等教育について勉強し

澤柳にはもっと広い教育構想の観点がありました。

 

彼の考えに合致したのは、

別学や女子大学の創設ではなく、

既設大学の門戸開放で対処すべきと考え

あくまで完全な共学というものでした。

 

それはなぜか

日本の教育制度は進歩したるものであって

欧米の制度のいい所のみを導入して

世界でより良い制度として日本は成っていると言います。

 

世界の「潮流」であるからとか

欧米に於て共学が盛んに行はれているからではなく

教育の本質として

男女の区別はない訳で誰もが全く平等であるため

共学であるのが当然ということを表明しているのです。

 

男女に依って学問研究上の能力差はなく

男女同等に学ばなければ、

男子と同等な職業を求めることは出来ない。

 

学問を授ける上には

男女の区別は無いのであるから

男女共学で少しも差支え無いと平等をはっきり表明し

大学で行うのは学問研究であり

その場において敢えて女子学生を

排除する必要がないという結論に至ったのです。

 

しかし、まだまだ

女性の大学教育を定着させるほど

成熟している時代ではなかったようです。

女子学生

では経歴を簡略に

東京女子高等師範学校附属高等女学校助教諭の

江沢駒路は、物理学科志望でしたが

本人の学力が満たなかったのか?

 

学部内で

「物理」は、

入試を建前として女子入学を許さなかった!?と・・・

定かではありませんが内部事情があったかもしれません?

牧田らく:入学時24歳

1888年(明治21年) 京都府生まれ

京都府高等女学校卒業後

1911年(明治44年)

東京女子高等師範学校 理科を卒業し

同校の研究科に進学して

数学の森岩太郎教授を指導教員として2年間学ぶ。

 

1913年(大正2年)年3月

研究科を修了し、同校の授業嘱託となる。

 

1916年(大正5年)7月 大学卒業

黒田チカと共に日本初の女性理学士の一人となり

その後

講師として母校の東京女子高等師範学校の教壇に復帰。

 

1919年(大正8年)

画家の金山平三と結婚。

 

1920年(大正9年)2月

教授となるが

研究者・教育者と画家の妻の両立に限界を感じ

4月に職を辞する。

 

1933年(昭和8年)

家庭にありながらも数学研究を続け

「東北数学雑誌」第三十七巻に

文献目録「Linkageニ関スル著作ノ目録」を発表。

 

1938年(昭和13年)

「Linkageニ関スル著作ノ目録」は

ウィーンの数学者 Anton E. Mayer が

発表した論文において引用された。

黒田チカ:入学時29歳

1884年(明治17年) 佐賀県生まれ

1901年(明治34年)

佐賀県師範学校(現・佐賀大学文化教育学部)女子部卒業

小学校教員として1年の義務奉職を経る。

 

1906年(明治39)年

女子高等師範学校 理科卒業

その後、福井師範学校教諭を経る。

 

1909年(明治42年)

女子高等師範学校 研究科を2年で修了し

改称した東京女子高等師範学校で助教授に就任。

 

1916年(大正5年)7月 大学卒業

牧田らくと共に日本初の女性理学士の一人となり

副手(旧制大学で助手の下の地位)の職を得る。

 

1918年(大正7年)

天然色素の研究を

東京化学会(現・日本化学会)で発表

女性理学士の発表は初となる。

 

1921年(大正10年)~1923年(大正12年)

文部省外国留学生として

英国オックスフォード大学で有機化学を研究。

 

帰国後

啓明会(学者の研究を援助する財団)補助と

文部省の自然科学奨励を受けて

理化学研究所で研究を続ける。

 

1929年(昭和4年)

日本で2人目の

女性理学博士を東北帝国大学より取得

化学の分野では初となる。

 

1953年(昭和28年)12月

タマネギの中のケルセチンが

血圧降下作用があることをかねてから発見し

特許を得て

日米薬品株式会社からケルチンCとして市販される。

丹下ウメ(丹下 梅子):入学時40歳

1873年(明治6年) 鹿児島県生まれ

幼い頃に

右目を失明するというハンディキャップを持っていたが

鹿児島師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を首席卒業後

小学校(現:鹿児島市立名山小学校)の教諭となる。

 

1901年(明治34年)

日本女子大学校の第1回生として家政学部に入学

卒業後、

日本の薬学の父と呼ばれる長井長義のもと、

日本女子大学校の助手として勤務

文部省中等化学教員検定試験に

女性として初めて合格。

 

1918年(大正7年)7月

最優等の成績で大学卒業

病気のため2年遅れで卒業後大学院に進学。

 

1920年(大正9年)

工学部に移り、助手として食品化学の研究をし

翌年

文部・内務両省より欧米留学を命じられ

アメリカの

スタンフォード大学、コロンビア大学で栄養化学を修め

ジョンズ・ホプキンス大学にて

ステロール研究で博士号を取得

留学生活は8年に及ぶ。

 

帰国後

母校である日本女子大学校の栄養学の教授を務め

理化学研究所に入所しビタミンの研究を行った。

 

1940年(昭和15年)

ビタミンB2複合体の研究で

東京帝国大学より

67歳にして農学博士の学位を授与された。

 

以上です。

最後までお読み頂きありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました