行事

彼岸とは何?日本だけの行事だった!?彼岸の由来となる様々な話

行事

お彼岸といわれる時期が

年に2回、春と秋にあります。

「春彼岸」 「秋彼岸」と呼ばれていて

「春分の日」と「秋分の日」を中日とし

前後各3日を合わせた各7日間を「彼岸」といいます。

彼岸を語るには

仏教の話は欠かせませんが

認識や見解の相違など様々あると思われますが

ご容赦願いますようお願いいたします。

彼岸とは

「お盆」は、ご先祖様をお迎えしてお送りますが

「お彼岸」は、

こちらからご先祖様へ歩み寄る行為です。

彼岸の日にち

地球が太陽のまわりを回る日数の誤差により

その年によって日付が変化します。

【春彼岸】

春分の日が3月21日の場合

3月18日:彼岸入り

3月21日:彼岸の中日(春分の日)

3月24日:彼岸明け

【秋彼岸】

秋分の日が9月23日の場合

9月20日:彼岸入り

9月23日:彼岸の中日(秋分の日)

9月26日:彼岸明け

彼岸の語源

語源となる、

サンスクリット語(古代インド語)の

「Pāramitā パーラミター」(波羅蜜多)」を

漢訳(仏教用語)して「pāram(彼岸に)+ ita(到った)」

=「至彼岸(とうひがん)」という訳語になり

略されて「彼岸」と呼ばれていますが

「彼岸(彼の岸)」という場所に

「至る(到達する)」ことを意味しています。

彼岸と此岸

仏教の世界では

私たちが住んでいる現世の

この世を意味する此方の岸となる

迷いや欲、煩悩にまみれた世界を「此岸(しがん)」。

対して

あの世を意味する彼方の岸となる

煩悩や迷いを超えた涅槃の地、悟りの境地が「彼岸」です。

至彼岸ということから

仏の教え6つの修行(六波羅蜜)を積むことによって

煩悩や迷いの世界(此岸)から

悟りの世界(彼岸)へ到着できるとされたのです。

彼岸は本来

遙か彼方の悟りの世界に思いをはせ

中日をはさみ、それぞれ7日間

仏様の教えをを実践する期間とされています。

彼岸は日本だけの行事

しかし

春分の日や秋分の日の前後が

「彼岸」とされるのかについては、

確かな答えが導き出せない難しい問題であると思います。

なぜなら

「彼岸」というのは

他の仏教国にはない、日本独自の風習だからです。

彼岸には

お墓参りをしたり

彼岸の仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼びますが

これらも他の仏教国にはないことです。

元来の

悟りの世界である仏の国へ行くことができるよう

修行を積むという意味があったお彼岸の期間も

時代とともに

先祖を供養をすれば

先祖も仏の国へ行くことができるという

仏教の教えにちなみ

故人を偲び、ご先祖様の供養をする期間という

形式的な文化へと変化してしまいました。

彼岸は日願

独自の文化が生まれた背景には

日本古来より仏教が伝来する前から

日本固有の神道や祖霊信仰や自然崇拝など

各地域で昔から伝わってきた

歳時習俗が影響していると思われます。

特に

太陽を崇拝する行事が多く

東から昇る太陽を「日迎え」、

西に沈む太陽を「日送り」として太陽を送迎したり

太陽の動く道筋(東~南~西)に沿ってお参りしたり

太陽を信仰する慣わしがありました。

太陽に祈願をする「日の祈願」を

「日の願」や「日願(ひがん)」と言って

太陽信仰の「日願」が

仏教伝来と合いまみえ「彼岸」の考え方が融合して

日本独自の信仰のかたちをつくり上げてきたと思われます。

日願と農耕

農耕民族の日本人は

作物を育てる太陽は、まさに絶対的存在で

天体の運行や地上の様々な自然現象に留意して

季節を正確に把握する必要があり

農事の重要な目安を定めなければなりませんでした。

それが

季節の変わり目であり

非常に重要な節目である日願の日です。

春分の頃と秋分の頃

昼と夜の長さがほぼ同じになる特別日で

冬の寒さや夏の暑さの目処(めど)がつき

農耕準備の合図となり

春に豊穣を願い、秋の収穫に感謝し

太陽をまつり祖霊に対して

加護を祈り感謝する儀礼でもあったといいます。

ある地方では

山の神様である祖先の霊を

春分以前に山から里に迎え、

秋分以降に里から山へ送る儀式も行われていました。

このような

太陽信仰・祖霊信仰の行事が

念仏や先祖供養と結びついて

次第に

仏教行事に組み込まれていったとみられるのです。

西方極楽浄土

日の沈む(休む)西方に極楽があるとする

西方信仰は

世界最古の文明であるメソポタミア文明が起源とされます。

奈良時代7世紀前半

阿弥陀仏の「極楽浄土」に往生し成仏することを説く教えの

浄土教が中国から伝えられました。

浄土は仏国土で

つまり浄土とは、仏の国や仏の世界を表す言葉で

阿弥陀仏の「極楽浄土」は

太陽が沈む西の彼方に在るという西方極楽浄土思想です。

また

中国浄土教を大成した善導大師(ぜんどうだいし)の

「観経疏(かんぎょうしょ)」の一説には

「念仏して西方浄土の往生を願うには、

春分と秋分の、

日が真西に没する時期がもっともふさわしい。

なぜなら

浄土は日が没する真西の方位にあり、

その方位を念じて往生を願うことは

浄土を観想するにふさわしい」という

意味で説かれています。

春分と秋分は

年2回しかない特別な日で

太陽が「真東」から昇り、「真西」に沈む日です。

どちらにもかたよらない中正なる道という意味もあり

「遙か彼方の極楽浄土に思いをはせ

西方に沈む太陽を礼拝したのが彼岸の始まり」とする様に

極楽浄土が彼岸であることの由来とも言えます。

彼岸と極楽浄土

悟りの境地に達した世界=極楽浄土のこと、

今で言う「あの世」を「彼岸」と言い

その反対側の私達がいる煩悩や迷い溢れた世界の

「この世」を「此岸(しがん)」としています。

極楽浄土=彼岸の世界は「西」に在り

現生=此岸の世界は「東」に在るとされていて

春分の日と秋分の日は、

真西に沈む太陽から延びる光の道は

仏の示してくれた道しるべとなる

彼岸への道です。

真西の

極楽浄土=彼岸につながる道の方角が

はっきりわかるということ。

極楽浄土=彼岸の入口が真正面になることで

「彼岸」と「此岸」が最も繋がりやすい日、

「極楽浄土が最も近くなる日」

「祈りが最も通じやすくなる日」と

春分の日と秋分の日は

最も重要な日であったわけです。

彼岸会の起源

一説に、

聖徳太子の時代に遡ぼるといわれますが、

明確なものがありません。

崇道天皇の法要

「彼岸会」の記録に残っている初出は

平安時代初期に編纂された歴史書の

「日本後記」(にほんこうき)」に

平安時代前期、西暦806年(大同元年)3月

「奉爲崇道天皇。令諸国国分寺僧春秋二仲月別七日。讀金剛般若經」と

記載があり

「崩御した崇道天皇(すどうてんのう)の供養の為に

諸国の国分寺の僧を集め命じて

春分と秋分を中心とした前後7日間に

金剛般若波羅蜜多経を読ませる」と

朝廷で法要をしたことが記され

以後

恒例とするようにしたとされます。

崇道天皇とは

第50代の桓武天皇の弟、早良親王(さわらしんのう)の事であり

疑惑のため幽閉され、憤死してしまい

その後、

桓武天皇の周りで次々と不幸が続き、

早良親王の祟りとされたため

怨念を鎮めるため、7日間昼夜を問わずにお経を転読するという

彼岸の起源は

早良親王の怨霊を鎮めるための行事であったとも言われています。

少なくとも平安時代の初期から

彼岸の行事が行われていたと言えます。

鎌倉時代には武士の間に広がり、

江戸時代になってから、一般民衆の間に浸透し

彼岸に墓参りをすると言った風習も

江戸時代に起こったと考えられています。

天皇の皇霊祭

依頼、

宮中祭祀のひとつとして

歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式として

春分の日に、春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)

春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)、

秋分の日に、秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)

秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)として

宮中で現在でも執り行われています。

国の祭日でもありましたが

1948年(昭和23年)

それぞれ

春分の日・秋分の日と改称されて国民の祝日となりました。

ちなみに

春分・秋分の日を「中日」と定めたのは

1844年(天保15年)江戸時代後期

天保暦に改暦されてからです。

それ以前は

時代によってその日取りの決め方が様々で

彼岸の日付が一定しなかったようです。

自然の恵みと先祖供養

国民の祝日の趣旨は

法律上、同じ趣旨で祝日を定義できないため

同じお彼岸でも春と秋では趣旨が違ってきます。

「春分の日」の趣旨は

「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」こと。

「秋分の日」の趣旨は

「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」こと。

様々な要因が混交し

日本独特の感性と独自の風習により

四季織りなす季節の変わり目に

自然の恵みに感謝し、先祖に想いを馳せ供養する

彼岸という行事が日本だけに定着したようです。

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