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ありがとうの語源は人間に生まれた有り難さ!感謝の深い意味

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ありがとうは、

日本語で感謝を表す素晴らしい言葉です。

普通なら

人に対して、物事に対して、

「ありがたい」と感じたとき、

人は「ありがとう」と感謝します。

「ありがとう」と言えることは

素晴らしい事だと思います。

「ありがとう」の語源

「ありがとう」 の語源は、

形容詞 「有り難し(ありがたし)」 の

連用形 「有り難く(ありがたく)」 が、ウ音便化し

「ありがとう」 となった。

 出典 語源由来辞典

と、

辞書を開くと出てきます。

ウ音便(うおんびん)化とは

「く」 「ぐ」 「ひ」 「び」 「み」 などが

「ウ」の音になることで

「行きたく → 行きとう」

「かぐはし → かうばし」

「思ひて → 思うて」

「呼びて → 呼うで」

「頼みたる → 頼うだる」などの事ですが

語源である 「有り難し」 の漢字を理解することで

本来の意味が見えてきます。

お釈迦さまの言葉

有り難しは仏教由来の言葉であり

文字どおり、「有る(ある)こと」 が「難(かた)い」、

「ある」 ことが 「むずかしい」、

つまり

「存在することが難しい」 と言う事から

本来は

「めずらしい」

「滅多にない」

「あり得ない」 という意味です。

有ること、存在することが、なかなか困難であって

有って欲しいと望んでも、有ることは稀であり

あり得ない状態を表した言葉が

「有ること難し」 「有り難し」です。

「法句経(ほっくきょう)」

または、

「ダンマパダ」という、紀元前200年頃の

最古の経典といわれている

「お釈迦さまの真理の言葉」を編纂した詩句集の

182番に

「人の生を受くるは難く やがて死すべきものの 

 いま生命あるは 有り難し

 正法(みのり)を耳にするは難く

 諸仏の世に出づるも有り難し」

と、翻訳された一句があります。

人間として生まれて来る事が、まず難しい事で

いつか必ず死ぬことになっている者が、

今こうして得難い命がある事は、本当に有り難い事であり

生きている間に、正しい教えに接する事は難しく

仏さまがこの世に出てこれる事も、滅多にない事である。

「有って欲しいと望んでも、有ることは稀である」

今現在

命があるという事が稀であり、有り得ない事だ。

と言うのが、句の意味です。

この、お釈迦さまの言葉が

「有り難し」の語源とされています。

私達は

無限の因縁や無限の偶然から

生命を受けて誕生したわけですが

もしかしたら、

獣として生を受けたかもしれませんね。

ですが

「生まれ難い人間に

 生まれることが出来て有り難い」と

奇跡的に「人間」として命を頂いたわけです。

人間に生まれてくる事がいかに有り難いか

「めったにない事をしてくれて感謝している」と

かけがえのない生命の誕生や尊さに

心から有り難いと感謝の意を持つに至った

「有り難し」 は

お釈迦さまの大いなる御教えの言葉であり

時代と共に

喜びを込めた感謝の言い回しが、次第に慣用語として

「ありがとう」 という言葉になっていきました。

ありがとうの対義語

「有り難う」 の反対語は、ご存じですか?

ご説明した 「有り難し」 の意味である

「あることがない」 「めったにない」 事ですから

「いつもある」という意味の

「当たり前」 「当然」 が、反対語になります。

毎日、

空気がある事も、水や電気やガスがある事も

住む場所があり家族がいる事も

意識することなく、疑うことなく

当たり前の様に暮らしていませんか?

今ある暮らしが

ずっと続くものだと思い込んでいませんか?

いつしか気付かぬ間に

人は慣れると今あるもの、持っているものを

「当たり前」 に感じてしまいます。

当たり前って

そこに「有る」 ものが当たり前、

あって当たり前、

その

当たり前の様にあったものが無くなったら

当たり前ではなくなり、人は困る訳です。

本当は

「当たり前」 の毎日なんてありません。

夜、眠りに付いて 朝、目覚められたという

ありふれた日常こそが奇跡なのですから

「当たり前のことなど何もない」 のだと

改めて感じることによって

身近なもの、ほんの小さな事にも

今あるものに目を向ければ

「ありがとう」 の5文字が、感謝の気持ちとなり

溢れてくるのではないでしょうか・・・

最後に

人間は

一人では生きられないとよく言います。

人は

支え合って、助け合って、共存して

宇宙の恵みを頂いて生きている背景には

計り知れない無限大の恩恵があるわけです。

人間は

生まれたいと思って生まれたのではありません。

そして

生きているのではなく

生かされている存在であるという事です。

宗教的にも言われている事ですが

医学的にみても

人間は

多くの細胞が生命を保つために働いていますが

心臓や血液だって

自分で動かしてるわけではありませんから

生かされているのです。

生かされている命の中で、

善行であろうと 悪行であろうと

笑ったり、怒ったり

どのように生きても自由です。

しかし

人間は何のために生まれてきたのか?

いかにあるべきなのか?

儚い人生をどう生きるべきか?を感じたとき

計り知れない恩恵によって

今ここに頂いている命は

奇跡的な存在なのであり

非常にありがたいものであるとなれば

自然の理法に従って

与えられた命を、ひたすら感謝で積極的に生きる、

それが命の本質であり根源であると思います。

生きているだけで、ありがたい。

だからこそ、

日々感謝で「ありがとう」となるのだと思います。

生きていれば

楽しいことばかりではありません。

辛い時、悲しい時、苦しい時、不安な時と

様々なマイナス的な感情や身体の時に

感謝を感じられる

心の余裕なんてないのですよ。

それもまた、当たり前なのです。

感謝は強要するものではありませんし

問題を抱えている時に

感謝の気持ちを持とうと言われても

「感謝」が心や身体の負担になる事があります。

でも、時が訪れれば 

自然と何かに気付かされて素直な芽が生まれます。

当たり前の日常の中に

気付かぬ本当の幸せがあるのかもしれない・・・

いつもありがとう。

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