童謡「青い眼の人形」と人形「青い目の人形」との違いや友情人形や答礼人形とは!?

こんにちわ(こんばんは)!管理人の hiroro@ です。

今回は童謡「赤い靴」にならぶ「青い眼の人形(あおいめのにんぎょう)」についてお話していきたいと思います。

「赤い靴」は1922年(大正11年)野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡です。

「青い眼の人形」は、その一年前1921年(大正10)年で同じく、野口雨情作詞、本居長世作曲で発表された童謡で「赤い靴」と「青い眼の人形」は、どちらも異国情緒をかもし出す童謡であり、当時の様子がうかがえる日本の童謡です。

しかし人形の「青い目の人形」とは別話なのです。

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「赤い靴」のお話しも掲載しています。

青い眼の人形の歌詞

アメリカから

「青い目をした

セルロイド製のお人形がやって来た」ので

この歌が誕生したと思われていますが

実際は違うのですが

まず、歌詞を見てみましょう。

 

「青い眼の人形」の歌詞

野口雨情(のぐちうじょう)作詞

本居長世(もとおりながよ)作曲

 

青い目をした お人形は

アメリカ生まれの セルロイド

日本の港へ ついたとき

一杯涙を うかべてた

「わたしは言葉が わからない

迷子になったら なんとしょう」

やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ

仲よく遊んで やっとくれ

仲よく遊んで やっとくれ

※歌が流れますので
音量に注意してください。

青い眼の人形

この歌に描かれている人形は「キューピー人形」がモチーフです。

日本の子供に喜ばれて人気がありセルロイド製のキューピー人形を愛しく抱いて遊んでいる姿を見て「青い眼の人形」の詩が出来上がりました。

本居長世がアップテンポの「へ長調」で始まり、少し遅い「へ短調」に転調され、最後にまた「へ長調」に戻る、長世の得意な作曲形式で明るく愁いのある作曲で、国内で大流行しました。

大正時代は、「童心主義」と言う子どもを純粋無垢なものと捉え、童話や童謡がさかんに書かれた時で数多くの児童文化が興隆した大正デモクラシー時代です。

主流は童心主義と言っても人それぞれ、思う事、感じる事は違い、主義や思想もその時、時の流れで移り変わるものですが、当時の野口雨情も雨情なりの童心主義の子ども観がありました。

純粋に「子供の心に映ったそのままの感情」「大人には無い純粋さをもった子供」「子供の心の中には素直な良い感情がある」などを重視した捉え方で、子供を題材にするのではなく、子供自身が自身の心に感じられるよう、子供の見地に立ち、子供の世界に入って、詩にしています。

子供に成り代わって詩を書く野口雨情ですが、キューピー人形に接した雨情は子供には優しい感情で受け止めてほしいと願い、人形を擬人化し輸入された人形は「アメリカ人の少女」です。

異国人であるため、日本語がわからないから、異国の少女の立場や気持ちを理解する事を日本の子供たちに芽生えるよう求め、大人からは仲良くしてほしいという、願いを込めた詩で大人が子供を良い方へ導く教育的な要素があります。

また全て国境なしの愛の教育でなければならいと、国際愛の声が教育上に持ち上がった時でもあり「国際愛」がテーマでもありました。

青い眼の人形と関東大震災

1923年(大正12年)9月、関東大震災により甚大な被害が発生し、世界中からアメリカでも日系米国人を中心に多くの募金、援助物資が日本に寄せられました。

その返礼として遣米答礼使節団(芸術答礼使節)が組まれ1923年(大正12年)12月、本居長世を団長に長世の2人の娘「みどり」「貴美子」と音楽家などと共に横浜港からハワイ、アメリカ各地に赴き支援の謝意を伝えるべく、童謡コンサートを開きました。

特に「青い眼の人形」が「Blue eyd doll(ブルーアイドダル)」と訳され大好評だったようです。

ちなみに本居長世の長女「みどり」は童謡歌手の第1号であり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号でもあります。

青い目の人形

「青い目の人形」とは日米親善のためにアメリカから贈られた人形の事を言います。

童謡の、青い「眼」と人形の、青い「目」の漢字が違っています。

アメリカの仲介の下で日露戦争が終結(明治38年)したものの、他国内に持つ権利を巡り、日米の政治的緊張が高まり日米の対立は日本人のアメリカ移民に端を発しています。

1885年(明治18年)以降、農業従事者として新天地を求め多くの日本人がアメリカやブラジルへ渡りました。

その後アメリカでは急増する日本人移民への反感を招き、暴動も散発し、日系人排斥の動きが高まり大きな社会問題になりました。

1924年(大正13年)アメリカで日本からの移民を全面禁止するという「新移民法」が制定され、日米関係は悪化していきます。

ギューリック博士とは

そんななか親日家のアメリカ人宣教師であるシドニー・ギューリック博士は、(シドニー・ギューリック博士とは宣教師として1888年[明治21年]から 滞日通算20年を越えるほど日本で暮らし布教や教育活動や学校の教授も務めた親日家。)日に日に悪化する日米の対立を懸念し、心を痛めていました。

そんな時に聴いたのが日本の震災で救援募金の時に歌われた、童謡「青い眼の人形」でした。

この歌を思い出したギューリック博士は日米関係の改善を友好に繋げ、文化的に和らげようと「友情の人形」を贈ろうと考えました。

日米子供達がお互いの国を知り合い、友情を結ぶことが改善に役立つと考え子供の世代からの国際交流が必要という理念のもと「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い。」「世界の平和は子供から」を、スローガンとして掲げました。

1926年(大正15年)親善活動として世界児童親善会が結成され、日本の人形や雛祭りの文化を認知していた彼は「日本の雛祭りに人形を送ろう」とアメリカ全土に呼びかけました。

260万人というたくさんのアメリカ人の協力のもと、人形を日本に贈るプロジェクトとなる「人形計画」が展開されました。

もう一つギューリック博士の思いは日本の関東大震災において、人形を失った子供たちを慰める意味も含まれていたのです。

1926年12月から雛祭りに間に合うようにと人形を乗せた船が、12隻に分かれ日本をめざして出港。

童謡「青い眼の人形」の発表から6年後の1927年(昭和2年)1月18日、太平洋を越えて横浜港へ到着し、続々と人形を乗せた船は横浜、神戸港に着き、贈られてきた人形は全部で12,739体にも及びます。

財界の渋沢栄一

ギューリック博士は、かねてから昵懇の渋沢栄一(しぶさわ えいいち)に日米交流の提案の手紙を出していました。

「日本資本主義の父」といわれる財界の重鎮である、渋沢栄一が共感を覚え、日米関係の悪化を憂慮しながら仲介役を担い、外務省や文部省に協力を依頼し人形の受け入れに尽力しました。

友情人形

この贈られてきた親善人形には各々、友情の手紙が添えられ、渡航切符を持ち、また、名前や発行番号、出身地などが記載されているパスポートまでも添えられていました。

「青い目の人形」として日本各地の幼稚園・小学校と当時の植民地だった樺太・朝鮮・台湾・関東州(後の満州)に配られて大歓迎されました。

親善人形は「友情の人形(Friendship Doll)」と、呼称されて贈られ来ました。

「友情人形」または、「人形使節」が、日本での通称ですが贈り主側が「青い目の人形」と名付けたわけではなく、童謡「青い眼の人形」が流行していたため友情人形は「青い目の人形」と呼ばれ定着しました。

ちなみに贈られた人形は、必ずしも「青い目」ではなく、童謡の詩にある「セルロイド製」でもなく合成物で固められた人形で、寝起きするたびに目をパチクリとさせ抱き起こしたり腹を押すと「ママー」と声を出すので感動したようです。

日本に送られた人形のなかにはドイツ製のものや、個人の愛玩品だった人形もあり数は13,000体を越えていたのではないかと言われています。

答礼人形(とうれいにんぎょう)

ギューリック博士は「返礼をしなけれとばと思うでしょうが決してその御心配はなさらないで下さい。喜ぶものは貴女がたから御手紙を戴く事です。」という手紙の一文があります。

しかし日本では、返礼の品を送りたいという申し出の声があがり、少数にして精巧に作った人形を以って返礼する事になりなした。

雛祭りに送られた、青い目の人形への答礼として渋沢栄一が、外務省から依頼され「日本からもクリスマスに人形を送ろう」と当時の経済不況のなか全国の役場や小学校・幼稚園に一銭募金を呼びかけました。

250万人の協力のもと答礼人形は、47道府県(当時東京府)と6大都市の東京・横浜・名古屋・京都・大坂・神戸、当時の植民地だった樺太・朝鮮・台湾・関東州(後の満州)、そして日本代表(大日本)を加え合計58体です。

80㎝を超す高価な友情人形となる「市松人形58体」が盛大な送別会が実施された後、パスポート、客船の一等切符、手紙などを持ち1927年(昭和2年)11月10日アメリカをめざして横浜を出港しました。

11月19日、ハワイを経由して11月25日、サンフランシスコに到着し、長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介されアメリカの人々は熱狂的に歓迎しました。

「量より質」を重視して製作した結果ですが、アメリカの人形1体が3ドルに対して、製作費用は1体あたり付属品込みで150ドル(約350円)の費用がかかったそうです。

当時、小学校教員の平均月給は、50円代で消費者物価指数によれば当時の350円は、現在では約57万円位に相当します。

人形に何の罪があろうか

1939年、第二次世界大戦が始まり、ヨーロッパ内での戦火でしたがその最中1941年(昭和16)12月日本軍がマレー半島、真珠湾を攻撃しアメリカなどの連合国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発。

それが全世界に拡大し、史上最大の大戦争となってしまいました。

警察や軍の統制下におかれた日本での戦争という悲しい運命は敵対する国の文化も排斥されました。

敵国の歌とみなされ童謡「青い眼の人形」、「赤い靴」や、ジャズなど、歌う事が禁じられてしまいます。

平和の架け橋となり贈られた友情人形である「青い目の人形」は敵国のものとみなされ竹槍(たけやり)訓練の標的にされたり、焼却されたり、壊されたりと空襲や災害で失われたりなどいわゆる自粛と言う、狂気の時世の中国の想いを察して各地の人たちが壊していったわけです。

しかし、このような厳しい戦時下にあっても、戦争の愚かさに冷静な目を向け人形に託された意義や平和を思い、人形を守ろうとした人たちがいたのも事実で現存数は約330体程しか確認されていないようです。

悲しいですね。「ママー」と泣く「青い目の人形」を手にして感動した子供達が大人になって壊す羽目となる事実・・・

新・青い目の人形

最後になりますが、地方に残る青い目の人形の再発見として人形親善の継続として、ギューリック3世らから新しい人形として「新・青い目の人形」の寄贈が行われるようになりました。

「青い目の人形」が贈られて、90周年以上が過ぎました。

数奇な運命でしたが、アメリカの子供達が心をこめて贈ってくれた友情人形は「平和」を象徴する大切な歴史ある宝物です。

人形は何も語りませんが、なぜ遠い外国からやって来たのか?世界の国々の子供達が仲良くなることを願っているに違いありません。

雨情の童謡「青い眼の人形」ですが、発表された当時は「靑い目の人形」でした。

「目」の文字が「眼」に、現在は変更されています。

童  謡 =「青いの人形」

友情人形 =「青いの人形」

と、表記するよう統一されているようですね。

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

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