童謡「赤い靴」はいてた女の子は実話だった?本当は異国に行っていない悲しい歌!

公開日: : 最終更新日:2019/03/07

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「赤い靴(あかいくつ)」の

童謡(どうよう)は、ご存知でしょうか?


ある少女が

天国へ旅立ってから、100年経過するお話し。


プロローグ



「赤い靴 履いてた女の子が

 船に乗って

 外国人に 連れられて 行っちゃった」と言う

 実話をもとに「歌」になった「赤い靴」。

「連れられて 行っちゃった」とは、ミステリアスですね。


1992年(大正11年)

野口雨情(のぐち うじょう)作詞・

本居長世(もとおり ながよ)作曲で発表された童謡で

 童謡(どうよう)とは

 子供に歌われることを目的に作られた「子供向けの歌」です。


子供向けの歌なのに

「女の子が連れて行かれっちゃった」という

哀しい陰鬱なメロディーで子供を怖がらせるような歌、

謎めいた実話により、誕生した童謡です。



「友情人形の青い眼の人形」のお話も掲載しています。
       ↓
 動揺「青い眼の人形」


「赤い靴」歌詞

1. 赤い靴 はいてた 女の子

   異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった


2. 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って

   異人さんに つれられて 行っちゃった


3. 今では 青い目に なっちゃって

   異人さんの お国に いるんだろう


4. 赤い靴 見るたび 考える
 
   異人さんに 逢うたび 考える


5. 生まれた 日本が 恋しくば

   青い海 眺めて いるんだろう
 
  異人さんに たのんで 帰って来(こ)


5番に関しては

1978年(昭和53年)になって発見された歌詞です。


この「赤い靴」は、文化庁が選定した

「日本の歌百選」に選ばれている曲の1つです。
 

※歌が流れますので
 音量に注意してください。
 左の再生ボタンの ▷ をタップして下さい。


「赤い靴」の話

この「赤い靴」の歌詞は、

実話をもとに書かれ

その内容は「定説」として定着化されています。

赤い靴File
諸説の話しも存在しますが

「定説」に対しての異議や異説、捏造とする説

「確証はない」「実在のモデルはいなかった」など

様々な論争を巻き起こし

もしかすると、

事実のように作り上げられたもので

事実でない事が

「定説」となってしまったかもしれない「赤い靴」。


いずれにせよ

定説を知らずして異説は語れませんので

今回は

実話をモチーフに歌詞が書かれたという

「赤い靴」に秘められた、切なく寂しい内容の

「定説化」されている「赤い靴」のお話しです。

岩崎きみ

実在のモデルとなった「赤い靴」の少女の名は

 「岩崎きみ」と言います。

 1902年(明治35年)7月15日生まれで

 静岡県不二見村(現:静岡市清水区宮加三)出身。

岩崎きみの父親

「岩崎きみ」の父親の名は

 明かすことが出来ない人、

 もしくは
 
 誰だかわからないようです。

岩崎きみの母親

「岩崎きみ」の母親の名は

 「岩崎かよ」、明治17年生まれ。

 静岡県不二見村出身。

「岩崎かよ」の両親である

   父・岩崎清右衛門と、母・せきの

   長女として「かよ」が生まれます。


   「かよ」が5歳のとき父親が他界し

   その後、

   母・せきと「佐野安吉」が結婚します。
   

岩崎きみの誕生

1902年(明治35年)「かよ」は、

18才で妊娠し、赤い靴のモデルの女の子

 「きみ」が誕生し

 未婚の母として「きみ」を育てていました。


1903年(明治36年)

 私生児という事から世間の風当たりは厳しく

 新天地を求め

 静岡から、当時の北の玄関口、函館へと渡ります。 
 

佐野安吉

1904年(明治37年)9月、

 「きみ」は

 「母・岩崎かよ」の義父である「佐野安吉」の養女になり

 「佐野きみ」となります。

鈴木志郎

1905年(明治38年)夏、

 「かよ」は、函館にて

 青森県出身の「鈴木志郎」と出会い恋愛します。

農村ユートピア

義父・佐野安吉に伴い

 「岩崎かよ」「きみ」「鈴木志郎」たちは

 北海道真狩村(現・留寿都村)の

 農村ユートピアに理想を求め

 その地を目指す決意がありました。


そこには

 社会主義結社である平民社(へいみんしゃ)の

 「平民社農場」があり、

 社会主義的な農場の建設を目指した

 「新しい村づくり」の農場建設が進められ

 自作農集団であり、自由の地でもあり

 その農場に入植するためでした。


 入植とは

  開拓などの為に、移り住む事です。


開拓農場へ入植する事になったわけですが

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさ

 貧しさも加え

 寒さ厳しい北海道の自然などを考えると

 病弱な幼子である「きみ」を連れ行くのは困難です。

C・W・ヒュエット夫妻

生きるためとはいえ
 
 悩みぬいた末、やむなく「きみ」は

 開拓農場への入植は無理であろうと判断し、

 函館の

 アメリカ人宣教師のC・W・ヒュエット夫妻に託し

 養女として預けることにしました。


まさに

 異人さんに引き取られるわけです。

岩崎辰蔵

1905年(明治38年)12月年、

 「きみ」が満3歳の時、「かよ」たちは移住し

 「かよ」の弟である「岩崎辰蔵」を

 静岡から農場へ呼び寄せますが、

 開墾の過酷労働で死亡してしまいます。

挫折

1906年(明治39年)

 「鈴木志郎」と「岩崎かよ」は農場で結婚し

 後に、農場経営の行き詰まりもあり、

 開拓生活に挫折し、三人は農場を離れ

 樺太か小樽かに渡ったとされています。


1907年(明治40年)1月

 「志郎」と「かよ」のあいだに女の子「のぶ」が誕生。

野口雨情

その後

 1907年(明治40年)、

 鈴木志郎は、札幌の「北鳴新報」という新聞社に入り

 野口雨情と出会い、親交を持つようになります。

 
山鼻村(札幌市中央区)に、一軒の家を借りて 

 野口一家と鈴木一家は一緒に住んでいたそうです。


 娘の「きみ」を宣教師に預けた事など、

 その一連の流れを野口雨情に話した事が

 「赤い靴」の詩の原型になったとされます。


 鈴木夫妻は勿論のこと、話しを聞いた野口夫妻も

 「きみ」は宣教師に連れられて

 横浜の海を望み、アメリカへ旅立っていき

 幸せに暮らしていると思い込んでいました。


 きっと、

 いつの日か、再会できると思っていた事でしょう。

石川啄木

1908年(明治41年)

 小樽の「小樽日報」が旗あげし

 鈴木志郎、野口雨情、石川啄木の三人は

 いずれも共感する社会主義思想があり

 一緒に入社し、志郎は石川啄木とも親交を持ちます。


 琢木の個人歌集(1912年刊)の

 「悲しき玩具(一握の砂以後)」には

 「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、

  今はどうして何処にゐるらむ」と、書かれていますが

 この歌の「鈴木」は、「きみ」と思いきや

 「志郎」のことです。

その 誕生

1913年(大正2年)

 「志郎」と「かよ」の間に2番目の子

 「その」が誕生。


 この人物こそが後に、

 童謡「赤い靴」のキーパーソンとなります。

赤い靴 誕生

その後の、1921年(大正10年)

 鈴木夫妻と野口夫妻が知り合ってから約14年後

 「赤い靴」が、野口雨情によって作詞され
 
 1922年(大正11年)に

 本居長世の作曲で童謡になりました。


野口雨情は、既に詩才を認められた人物で

 鈴木夫妻の話しを聞いてからは

 月日が流れても、切なく湧き上がる詩心が

 奥底から芽生えていたのでしょう。


 野口雨情自身も、

 生まれたばかりの娘を亡くしていた事もあり

 母親「かよ」の、娘「きみ」に対する愛心も重なり

 遠い、異国の地に渡った「きみ」を案じ

 また、

 雨情の亡き娘への想いもこめられ

 「赤い靴」が誕生したといわれています。

「きみ」はヒュエット夫妻と異国に?

では、

 預けられた「きみ」は、その後どうしたのでしょう?

その後のきみ

1908年(明治41年)

ヒュエット夫妻は本国に帰る事になりますが

 「きみ」は結核に冒され、身体が衰弱していて

 渡米することは出来ずに

 6歳で、育ての親「ヒュエット夫妻」とも別れ

 東京麻布の鳥居坂教会(明治27年開設)の

 孤児院「永坂孤女院」(明治41年、麻布永坂町へ移転)に

 預けられます。


1911年(明治44年)9月15日秋の夜

 母親に会うことも叶わず

 わずか9歳で、結核性腹膜炎により、この世を去りました。

 
 「きみ」は、青山霊園の

 鳥居坂教会の墓地に眠っています。

その後のかよ

母親の「かよ」は
 
 「赤い靴」の歌を聞き

 野口雨情が作ってくれた歌だと知り

 「♪赤い靴はいてた女の子・・・♪」と

 よく歌っていたそうで

 また、悲しきかな

 知らずして良かったのか否か?

 娘「きみ」が、亡くなったことは知らずに

 一生を過ごしたそうです。


1948年(昭和23年)

 「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残し

 64才で他界しました。

定説の成り立ち

きみの義理の妹が突如現れます。

キーパーソン「その」出現

1973年(昭和48年)、
 
 鈴木志郎とかよの2番目の子(きみの義理の妹)である

 「岡その」なる初老の婦人(大正2年生まれ)の出現により

 「野口雨情の赤い靴の女の子は、

  まだ会ったこともない私の姉です。」という投稿から

 この「赤い靴」が大きく展開し、

 テレビ記者による数年の調査に至りました。 

菊地 寛

公に判明したのは

 1978年(昭和53年)の事

 北海道テレビ記者の「菊地 寛」氏による

 北海道テレビでの放送でした。


次の年の昭和54年

ノンフィクション小説「赤い靴はいてた女の子」が

「菊地 寛」氏により発表(現代評論社刊)され

この本が「定説」として「赤い靴」の内容が定着しました。

エピローグ

開拓の苦労の影に悲話となる

 悲しくも思いがけない運命の結末が

 「赤い靴」伝説となる

 切ない親子愛の哀愁物語でもあり、

 この歌詞が生まれた背景には

 実話が存在したという、定説「赤い靴」の話でした。


こうして定説とされてから後

「異説、捏造説」と浮上するわけですが

 全てが正しくなくても、

 どう、お感じになるかは、各個人が感じたままの心。

 
 歴史を紐解くのは

 言い伝え、文化、資料文献などの基にあるものの

 不一致や意見の相違、論争は常にあるものです。


 そして

 「事実はひとつ」、正確な答えは歴史的に必要ですが

 話しの真相は、専門家で紛議されています。


 困難な開拓時代に限らず

 母親が娘を案じる心情は、いつの世も信じてやみません。

「赤い靴」の像

各地に「赤い靴」の像が建てられています。


●1979年、横浜山下公園「赤い靴はいてた女の子の像」

赤いFile
 「横浜の波止場から」と、歌詞にある横浜の山下公園。


 野口雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので

 「異人さんに連れられて行っていない」事が分かった

 次の年に建てられています。



●1982年、横浜駅南口「ミニチュア版」

 横浜山下公園「赤い靴はいてた女の子の像」の

 ミニチュア版が「赤い靴記念文化事業団」から寄贈。


 賑やかな横浜駅南口ですが、駅改良工事に伴い

 現在は、駅自由通路(中央通路)に移設。



●1986年、静岡県日本平「母子像」

 生まれ故郷を望む静岡県静岡市日本平では

 親子をもう一度

 巡り合わせてあげようという願いから

 母と娘の銅像が建てられています。


 母と子の愛の絆、運命の再会です。



●1989年、東京都麻布十番「きみちゃん像」

 孤児院が、麻布の鳥居坂教会に在ったので

 パティオ十番に建てられました。



●1989年?青山霊園管理所入り口「赤い靴 少女の像」

 管理所入り口に「少女の像」が建てられてますが

 この地で永眠しているからなのか?詳細不明。
 


●1991年、北海道留寿都村「母思像」

 苦労した開拓農場の場所です。


 「赤い靴」ゆかりの地として、

 赤い靴公園に「母思像」が建てられました。


 1997年、ルスツふるさと公園には

 「開拓の母像」が建てられています。

 母親「かよ」をはじめ、

 開拓に携わった多くの女性をイメージしています。



●2007年、北海道小樽市「赤い靴 親子の像」

 小樽運河の西端にある「運河公園」に建てられました。

 鈴木夫妻は晩年を、ここ小樽で過ごし

 この地(中央墓地)で眠っています。

 
 スーツ姿の父親に着物姿の母親、

 「きみ」が幸せに暮らす姿を描き

 世界中の家族の幸せを願って建てられた、

 親子3人像です。



●2009年、北海道函館市「赤い靴 少女像」

 親子の絆の大切さを伝えるため

 函館開港150周年記念に合わせ

 函館港(末広町)の見える場所に建てられました。


 初めて北海道に降り立った場所であり

 母「かよ」が泣く泣く手放し

 「きみ」と別れた地でもあります。



●2010年、青森県鯵ヶ沢町「赤い靴 親子像」

 「きみ」の義父である鈴木志郎の出身地です。


 親子の愛と命の尊さを伝える事と

 歴史文化遺産を後世に語り継ぐ事を目的に

 「海の駅わんど」の海側の駐車場内に建てられ

 3人が寄り添う記念像です。



●2010年、サンディエゴ市「赤い靴の女の子の像」

 アメリカ・カリフォルニア州の南部、

 サンディエゴ市のシェルターアイランドの

 海辺の公園に建てられました。


 サンディエゴ市は横浜市と姉妹都市で

 山下公園の少女像と同じ型の像です。


 横浜開港150周年、少女像建設30年、

 横浜とサンディエゴの姉妹都市50周年を機に

 平和と友へ好の思いから設置されました。

最後に

「赤い靴」も歌い継がれ

「きみ」も9歳のまま、私たちの心の中に生き続けます。


では、「きみ」は

本当に赤い靴を履いていたのでしょうか?

残念ながら、謎に包まれています。


野口雨情の「青い眼の人形」の童謡は

「赤い靴」と同様に

異国情緒をかもし出す童謡で構成も似ており

「赤い靴」と同年代に発表されています。


「赤い靴」3番の

「今では 青い目に なっちゃって」という

フレーズの比喩表現に伴うものなのか

異人に対する思いなのか

当時の社会主義運動の晩鐘なのか

赤と青に対する相性なのか

雨情のみが知るところであり

事実、

赤い靴を履いていたかもしれない・・・



「青い眼の人形」は

 日本に連れて来られた外国の人形、

「赤い靴」は、

 外国に連れられて行かれた日本の子供、

何かしら関連性のある童謡ですね。


雨情自身曰く

「童謡には無邪気な温か味が欠かせない」と・・・



そして

皮肉にもサンディエゴ市に

少女の銅像がアメリカに渡る事となりましたが

「きみ」が病気でなかったら

元気に日本に帰国し、母親と再会出来たかもしれませんね。



定説として疑問となる気になる点の話を

最後の最後にひとつ。


「きみ」がアメリカ人宣教師に

預けられたとされる1905年(明治38年)

ヒュエット夫妻は一時帰国のため

日本には居なかった赴任記録があるようです。


考えられるのは

「きみ」の義理の祖父である「佐野安吉」が

6歳まで育てていたたものの

面倒を見きれず「孤女院」へ預けた・・・


または、

佐野家の養女となった2歳2ヶ月の時

「孤児院」に預けられたかもしれない・・・



野口雨情は生前

この「赤い靴」の歌詞について

何も語ってない事から、今では真実はわかりません。

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Comment

  1. はまっこ より:

    歌のチョイス悪いわ
    なぜボカロ まじめに人間が歌ってるのにしろよ
    そんな弄んでいい歌と私は思わんぞ

    • hiroro@ より:

      「はまっこ」さん、はじめまして。
      お返事遅くなり申し訳ありません。

      貴重なご意見ありがとうございます。

      早々に差し替えか削除する方向で検討いたします。

      が、お時間がかかることご了承願います。
      hiroro@

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