猫の日は2月22日と8月8日。日本は猫の国、猫の歴史を探る

公開日: : 最終更新日:2017/03/28 行事

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2月22日は

「猫の日」です。

「猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、

猫とともにこの喜びをかみしめる記念日を」

という趣旨で

1987年、

ペットフード工業会(現ペットフード協会)主催の

猫の日実行委員会が、一般公募によって制定した日です。


猫の鳴き声の「ニャン・ニャン・ニャン」と、

2月22日の「2」「2」「2」の語呂合わせですね。


そして

世界共通の国際猫の日は

8月8日です。


世界的組織・国際動物福祉基金(IFAW)によって

2002年に制定(本部は米国)されました。


愛猫家(あいびょうか)にとっては

「猫といつも一緒に暮らせてる幸せに日々感謝し、

飼い主も猫も喜びに満たされ充実した日を」とは

とても素晴らしい趣旨で、

後に続く言葉が見当たりません。


猫が、あまりお好きでない方も

一読、頂ければ嬉しいです。

猫を迎える前の心構え

気ままな猫と思われがちですが

実は、

猫はとても我慢強い性質をもっていて

それぞれの家庭のスタイルに

馴染む事が出来る、優秀な習性があります。


そんな

猫と暮らすために、一番大切な事は

飼い主としての「心構え」です。

neko

これから、猫を

迎えようとしている方にお伝えしたい事、

猫に限らず

ペットを飼うにあたって

飼い主は責任をもって

可愛がり、最後まで面倒を見ることを願います。


飼ったからには

決して、人間の都合で

途中で投げ出したりしないでください。


オス猫よりメス猫の方が

長生きする傾向にあるようです。


室内で飼われている

猫の平均寿命は15年、

近年では獣医療の進歩などもあり

20年近く長生きする猫も増えています。


同時に飼い主も年を取っていきますから

猫の世話も怠らない様にしなければなりません。


猫も

時には病気になり、年を取れば尚更

動物病院で治療を受けることとなり

それなりに時間や、治療代もかかり

治療代は、決して安いものではありません。


大きな病気をして手術が必要な時

お金が無くて治療が出来なかったら

猫は、どうしたらよいのでしょう・・・

医療費に限らず

毎日の食事代やトイレ用品、消耗品など

猫にかかる費用も必要です。


家族の大切な一員として、たくさんの愛情を注ぎ

何十年と猫と生活していくことになります。


そして

いつか必ず訪れる悲しい最期のお別れ。


その時、しっかりと

「最後のお世話」をしなければなりません。


このような

心構えや覚悟を持って

猫は

「人間ではない」ということを理解し

愛猫が健康で長生できるよう

飼い主が日頃から気を配る必要があります。


最初、

家族の一員として迎えてから

猫と長く生活していくうちに

「人間ではない」事を忘れてしまう程、

猫の姿を見ても違和感なく生活がなじみ

猫との生活、猫の存在が当たり前の様に

気付けば、家族になっています。


我が子のように、愛情が宿るのは当然で

「別れ」は、考えられない程、辛い事態になる事を、

想像して下さい・・・


愛猫との生活は、

暮らしに癒しを与えてくれます。


愛猫の幸せが

飼い主にとっても幸せに暮らせる事になります。


しつけの事や健康管理など

話しは、

たくさんありますが、割愛させていただきます。

飼うにあたっての心構えでした。

猫年齢を人間に換算すると

猫は

 生後半年で人間の10歳

 1歳で人間の15歳

 2歳で人間の24歳

 3歳から人間の4年に相当しますので

 5歳で人間の36歳

 10歳で人間の56歳

 15歳で人間の76歳

 20歳で人間の96歳

 21歳で人間の100歳

換算年齢は目安で、

種類や飼育状況、

生活環境によっても違いがあります。

他説もありますので参考までにして下さい。

日本の猫歴史

考古資料、文献史料においても

猫の資料は乏しく

猫が

渡来した時期は不明とされており

穀物や仏教の経典類をネズミの害から防ぐ為

伝染病などを媒介するネズミを駆除する為として

渡来してきたものと考えられています。


いつの時代にか、

「大陸から人為的にもたらされた猫」

ということになります。


が、

古代から日本に人が住むようになった頃

猫も、忍び足で付いてきて

ネズミが先だったのかもしれないが

一緒に猫が大陸から来ていたのかも?

当たり前のように生活していのかも?


古代から、普通に

人と共に猫が存在していたかもしれない

そう思ってしまうのは、夢なのか?


猫のロマン探求、

日本の猫歴を調べてみました。


漢字が多く出て来ますがご了承願います。

弥生時代(紀元前6世紀頃 ~3世紀中頃)

2014年

 長崎県壱岐市勝本町の

 遺跡カラカミ遺跡より「猫の骨」が出土され

 今から、2200年前~1700年前の

 弥生時代中期~後期のものであると特定され

 弥生時代にイエネコ(家畜のネコ)が

 存在していた事になります。


 となると、それ以前にも

 存在していたかもしれないとなり

 そう考えると奥深い神秘を感じます。


 この弥生時代の前、

 縄文時代(じょうもんじだい)の早期

 約1万2000~7000年前には

 犬は存在していたようですから・・・

古墳時代 (3世紀中頃~7世紀頃)

須恵器(すえき)は、

 古墳時代の後半から生産された陶質の土器。


 2007年に

 その須恵器から猫の

 「肉球と掌球とみられる足跡」が

 兵庫県姫路市四郷町の

 「見野(みの)古墳群6号墳」から発掘され

 偶然

 焼く前の器を、猫に踏まれてついたとされ

 この時の発掘時では、

 この古墳時代の猫が最古とされていましたが

 カラカミ遺跡が歴史を塗り替えます。

飛鳥時代 (592年 ~ 710年)

「日本現報善悪霊異記」
 
 (にほんげんほうぜんあくりょういき)

 略して

 「日本霊異記(にほんりょういき)」という

 古くより伝承された、最古の仏教説話集で

 705年

 初めて「文献」に「ねこ」が登場します。


 上巻第三〇話に

 猫に関する日本最古の記述があります。


 「我、正月一日に狸(ねこ)に成りて

  汝が家に入りし時、供養せし宍(しし)、
 
  種(くさぐさ)の物に飽く。

  是を以て三年の粮(かりて)を継げり。」

 という、一文(抜粋)があります。


 要は

 豊前国(福岡県)の東部地域を治めてた

 地方官の

 膳臣広国(かしわでのおみ ひろくに)が

 705年9月15日に亡くなり

 黄泉(よみ)の国に行き

 (黄泉の国とは

  日本の神話における死者の世界)

 亡き父親が、生前の罪悪で

 地獄で責められ苦しむ様子を目の当たりにします。


 三日後、広国は生前の功徳により蘇り

 亡き父親が、正月の一日に

 猫へと姿を変えて、広国の家に来るという話です。


 三年の粮(かりて)とは

 亡父が

 一年目は蛇に姿を変えては、息子に追い払われ、

 二年目は子犬に姿を変えては、息子に追い払われ

 三年目、猫になって、ようやく供え物の

 宍(しし)や種(くさぐさ)の物を食べられたとの事。


 古くは、大晦日に祖先供養が行われるため

 正月の一日に来て

 供養のお供え物の

 肉やいろいろなご馳走を食べ

 やっと

 三年来の空腹をいやすことができた。

 という概要です。


 この世に生き返り、遺(のこ)された生者の

 先祖供養の大切さを訴えた話であり

 仏教の因果応報、輪廻、廻向の説話です。


 「家に猫がいた」という記述に過ぎませんが

 一説には、

 膳臣広国の氏族は、

 中国の「ミャオ族」という話しがあり

 ミャオ族は、猫との関わりが深い民族です。


 日本霊異記の著者は

 薬師寺の僧・景戒(きょうかい/けいかい)で

 奈良時代の人物であり

 初稿本787年、

 完成したのは812年であることから

 上巻に収載された説話の多くは、

 薬師寺において、多くの書籍があり

 それを資料にしたものと考えられます。


 後に

 「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」
 
 平安時代末期に成立した説話集の

 巻20第16話に、ほぼ同じ内容で

 この広国の説話が収録されています。

奈良時代(710年 ~ 794年)

「古事記(こじき、ふることふみ)」の

日本最古の歴史書(712年)や


「日本書紀(にほんしょき)」の

歴史書(720年)などにも

「猫」の記述は無く

通説では、この奈良時代に

穀物や経典類の書物をネズミから守る益獣として、

中国から輸入され渡来してきたものと考えられ

日本猫の始まりとも言われてきました。


しかし

弥生時代に出土事例が特定された事により

紀元前から日本に猫が存在していた事になり?

新たな歴史になりました。




「新訳華厳経音義私記」
 
 (しんやくけごんきょうおんぎしき)

 編者不明の国語的な資料で

 722年、もしくは奈良時代末期で

 最初の、猫の文列です。


 「猫狸・・・ 猫捕鼠也、貍狸也、又云野貍、

  倭言上尼古、下多々既」という一文。


 貍(ねこ)が、狸(ねこ)であり、

 または、野貍ともいう と、ありますから

 いずれもネズミを捕まえる

 猫であるという意味だと思います。 


 「尼古(ねこ)」は、家猫を差し

 「多々既(たたけ)」は、

 タヌキの意味でもありますが

 時代的に、野猫を指すものと考えられます。


 元々、漢文で書かれた

 難解な語句を注釈した本のため

 適格な解釈は困難です。


 中国での「狸」は、野猫を指しますが

 中国から猫と共に

 「狸(ねこ)」、「猫(ねこ)」の漢字も伝来し、

 一時期のあいだ日本でも、

 いつしか

 野猫を「狸」、家猫を「猫」として

 言葉を使い分けていたと考えられます。


 猫の古語である「禰古萬(ねこま)」は

 「狸」と「猫」の言葉が伝来する以前から

 日本で使われていた言葉だとする説があります。

平安時代(794年~1185年)

この時代の中期頃、

貴族間では、中国からもたされた

「唐猫(からねこ)」が流行します。



「寛平御記(かんぴょうぎょき)」

 第59代天皇、887年在位の

 宇多天皇(うだてんのう)の日記で

 天皇の日記としては最初のもので

 猫の描写(文)が記録されています。


 「唐土渡来の黒猫」との文書きがあり

 885年、第58代天皇

 光孝天皇(こうこうてんのう)から、

 黒ネコを譲り受け

 889年2月6日の日記の一部

 「恰如雲上黒龍」

 あたかも雲の上を行く黒い龍の如しや

 ネズミ捕りは、他の猫より勝るなど

 黒ネコを愛でる描写が綴られています。

 日本最初の「愛猫記」ですね。




「本草和名(ほんぞうわみょう)」

 深根輔仁(ふかねすけひと)の

 最古の薬物辞典(901年~)で

 「ねこま」の初文献です。


 「家狸、一名猫、和名禰古萬」という記述があり

 家猫の名称が猫で和名は禰古萬(ねこま)。




「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」

 源 順(みなもとのしたごう)の

 漢和辞書(931年~)にも

 「和名禰古萬(ねこま)」とあります。




「枕草子(まくらのそうし)」

 清少納言(せいしょうなごん)の随筆。


 日本最初の随筆文学で

 平安時代中期(996年頃成立)。


 第九段に

 「上に候ふ御おおん猫(うえにさぶらふおおんねこ)」の

 話にも登場する有名なエピソードです。


 第66代天皇、986年在位の

 一条天皇(いちじょう てんのう)と

 定子(ていし/さだこ)皇后は

 非常な愛猫家で

 「命婦(みょうぶ)のおとど」という

 高貴な名を愛猫に付けます。


 ここでの命婦とは、

 「五位以上の女性」という意味で

 中級の女官という地位を与えられ、

 「殿上の猫」となった猫で

 日本で最初に

 「名前をつけられた猫」とされてます。


 ある日、

 「おとど」は、ひなたぼっこ中でして

 おとどの乳母(人間の世話係)が

 「こちらへいらっしゃい。」と呼びますが、

 おとどは、言う事を聞きません。


 そこで

 一条天皇に飼われていた

 犬の「翁丸(おきなまろ)」に

 「噛みついておやり」と言うわけです。


 犬の翁丸は素直に従い

 猫の「おとど」を追いまわし

 おとどは、天皇の懐に逃げ込みまして

 怒った天皇は「翁丸」を、島流しにしてしまいます。


 当然、

 乳母もお役ごめんです。


 でも忠犬、翁丸はボロボロになった姿で

 再び朝廷に舞い戻り、

 天皇も深く感動したという話です。

 「翁丸」も天皇家に飼われながら

 いい迷惑であります。


 愛玩動物として珍重され

 ブランドとも言うべき唐猫の存在は

 社会的な地位を成したのです。




「源氏物語(げんじものがたり)」

 通説では、紫式部(むらさきしきぶ)が作者で

 平安時代中期に成立したの長編物語。


 その中の

 若菜(わかな)の巻では、上下巻を通して

 唐猫が登場します。


 「若菜上」の巻に、登場する猫は

 源氏が39歳~41歳頃の話。


 光源氏(ひかるげんじ)の正室である

 「女三の宮(おんなさんのみや)」に

 恋する「柏木(かしわぎ)」。


 ある日

 源氏邸で蹴鞠(けまり)の会に参加していた柏木。


 女三の宮の部屋では

 長い紐に結ばれていた猫が、猫に追いかけられ

 逃れようと引っ張っているうちに、

 御簾(みす)が大きく引き開けられて

 皇女という最高位の女性でありながら

 女三の宮は、

 柏木に姿を見られてしまいます。


 当時の貴婦人は、人前に姿を見せないという

 貴婦人のたしなみがあり

 男性に顔を見られるのは、ご法度でありました。



 続く「若菜下」の巻において

 源氏41歳~47歳頃。


 恋心は爆発し、どうしても

 女三の宮のことがあきらめられない柏木は、

 まずは、

 彼女の飼い猫を手に入れようと策します。


 策略通り、

 女三の宮の猫を手に入れた柏木。


 さらには、

 その後の話しは・・・




「更級日記(さらしなにっき )」

 平安時代中期に書かれた回想録。


 著者は

 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)で

 本名か通称かは分かりませんが

 約40年間の半生が綴られている日記。


 1022年5月

 花が散るのを見ては

 その頃亡くなった孝標女の乳母や

 同じ頃亡くなった

 侍従(じじゅう)大納言の姫君のことを

  (姫君とは

   藤原行成の三女の事で16歳で早世)

 悲しく思い返していたころ

 孝標女宅に迷い込んだ猫。


 どこからか来たのだろうと考えていると

 そこに姉が来て

 「静かに。人に言ってはダメ。

  可愛い猫だから私たちで飼いましょう。」と言い

 元の飼い主が探しているかもしれないから

 秘密にして飼いましょうと言う事です。


 ある日、

 姉が飼い猫の夢を見ます。

 猫は「私は侍従大納言の娘。」と名乗り

 「孝標女が私のことを可愛そうだと

  思い出しくれたので、ここに来たのです。」

 というもので、

 この話しを聞いた孝標女は

 非常に感動したといいます。


 それから

 一年後、猫は・・・




「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」

 平安時代末期の説話集で

 成立年代と作者は現在も不明とされています。


 加賀(石川県 )の蛇を助けて

 人々がその島に住む話があり

 その島を「猫の島」と呼ぶ話。


 また

 貴族の藤原 清廉(ふじわらのきよかど)は

 「猫嫌いの人物」として登場しています。




「信貴山縁起(しぎさんえんぎ)」は

 平安時代後期、1150年頃成立の絵巻物。


 信貴山で修行した、伝説の僧侶と呼ばれた

 命蓮(みょうれん)僧侶に関する説話を描いた物で

 作者は不明。


 四大絵巻物の1つで

 日本最古の絵画史料とされる絵巻物の中の

 「尼公(あまぎみ)の巻」に

 日本最古の猫の絵が描かれています。


 毛色は黒と白、目まわりと頭は黒、

 鼻先は黒で、口から鼻筋ひたいにかけて白、

 首には首輪のような巻いた布が描かれています。

尼公File
 最古の猫画、わかりますか?
 上の方に描かれてます。
 
 少しズームアップしてみます。

NnekoFile



 この頃の猫は

 愛玩動物として飼われており

 希少価値が高く、紐で繋がれています。

鎌倉時代(1185年~1333年)

鎌倉時代に入ると、

怪猫の記述があらわれてきます。


小尾が二股に分かれるという由来ともなる

猫又・猫股(ねこまた)というのは、

「山の中にいる獣」

「飼い猫も年を経ると化ける」

「尾が二又に分かれる」などの伝承が

化け猫説として

見慣れない不可思議な出来事として

語られるようになります。




「明月記(めいげつき)」

 公家・藤原定家(ふじわら の さだいえ)の

 日記(1180年~)。


 1233年8月2日

 南都(奈良県)で

 「猫胯(ねこまた)」という魔獣が出現し

 一晩で数人の人間を食い殺したという記述があり

 「猫又」が文献上に登場した初見とされています。




「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」

 橘 成季(たちばなのなりすえ)の

 世俗説話集(1254年~)。


 とある官職の乳母が、猫を飼っていたが

 10歳を過ぎた頃、夜中にふと見ると

 猫の背中が光っていた。


 乳母は常日頃から、猫に対し

 「おまえが死ね時は私に姿を見せてはいけない」と

 教え込んでいたが、

 なぜそう言い聞かせるのかかは、わからないが

 猫は17歳になる年、行方知らずになってしまった。

 という話。



 また、

 雌峨(京都)の飼い猫の

 唐猫は、秘蔵の守り刀を咥えて逃げ出し

 そのまま姿を晦ましたとあり

 猫は魔物が化けていたものと

 伝えてる話などがあります。




「徒然草(つれづれぐさ)」

 吉田 兼好(よしだ けんこう)の

 随筆(1330年頃~)では

 「奥山に猫またといふものありて、

  人を食らふなる。」とあり

 猫又は山奥に潜んで人を食らうと記述があります。


 しかし、ここでの話は

 とある法師が、夜が更ける小川のほとりの帰り道

 噂に聞いていた猫又に飛びつかれ、

 小川へ転げ込んで助けを呼び、

 やっとのことで助かったという様子で

 自分の家にたどり入ったが

 飛びついたのは、飼っていた犬だったという話。


 世間の噂などに流されるな、という事です。


 怪猫というより

 「明月記」にも

 「猫跨病」なるものが流行り、

 人が苦しんだいう記述があり

 病を伝染させるような狂犬病にかかった獣が

 猫又いう解釈のようです。


 この時代を機に、

 ネコ妖怪のスタイルが怪談話として広がり

 諸説ある「猫又伝説」の背景には

 現在に至るまで名残りし、

 民間伝承の迷信、俗信となっています。




武将、北条 実時(ほうじょう さねとき)は

 書を保管する私設図書館として

 金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)を

 鎌倉時代中期に創設し(所在地:神奈川県)

 中国の王朝の一つである南宋(なんそう)から

 輸入した猫によって

 典籍類をネズミから守っていたといいます。


 猫本来の仕事である「ネズミ駆除」の動きが、

 この頃、見受けられますが

 貴重な愛玩動物の概念が抜けず

 ネコはつないで飼育するという現状が

 まだまだ多かったようです。

建武(けんむ)の新政(1333年~1336年)

鎌倉幕府滅亡後、

第96代、後醍醐天皇が開始した政権ですが

新政は2年半で瓦解(がかい)。

(瓦解とは、くずれ落ちること)


天皇が支配することは前例のないことで、

性急な政策時代です。


 猫は、相変わらず過ごしていたと思われます。

室町時代(1336年~1573年)

日本における

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)と

戦国時代(せんごくじだい)の

2つの時代を持つ室町時代。


庶民も猫を飼うことが一般的になりました。




東福寺の「大涅槃図(だいねはんず)」

 1408年

 吉山 明兆(きつさん みんちょう)

 通称、 兆殿司(ちょうでんす)という

 臨済宗の画僧で、東福寺に入り

 初の寺院専属の画家として活躍し

 多くの著名作品があります。


 その、

 東福寺の京都三大涅槃図の1つと言われる

 「大涅槃図」には

 「猫が描かれている」大変珍しい特徴があります。


 他の大涅槃図には、

 十二支の動物はいますが、猫は描かれていません。


 涅槃図になぜ猫がいないのかは

 またの機会で・・・


 明兆が大涅槃図の制作中に

 絵具が足りなくなると、

 猫が咥えて持って来てくれたそうで

 その功徳に依り、猫の絵を加えたとされ

 「魔よけの猫」とされています。


 この大涅槃図は

 通常非公開ですが、年に一度、御開帳されます。


 涅槃会(ねはんえ)という法要があり

 毎年、3月14日~16日(旧暦2月14日)

 釈迦様が亡くなられた2月15日にちなんで

 行なわれる行事で、この法要期間中に観賞出来ます。


 また、

 通常非公開の本堂を拝観する事が出来ます。




「幸若舞(こうわかまい)」

 伝承上の創始者は、桃井直詮(もものいなおあき)。


 足利時代に成立し、室町時代に流行した

 「語りを伴う曲舞(くせまい)」と呼ばれた芸能。


 幸若舞の演目のひとつである

 「敦盛(あつもり)」は、織田信長が

 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば・・・」と

 謡い、舞った有名な一節があります。


 この時代の幸若舞に登場する

 猫は、

 京都において

 自由に外を徘徊している様子が記されてます。


 外で生活する猫が多いという見解もありましたが

 広く繁殖するまでには至らず

 貴重な愛玩猫として扱われており

 鼠狩りの益獣としての役割からは、

 かけ離れていたようです。




「猫城(ねこじょう)は、

 筑前(ちくぜん)の

 氏族である麻生氏(あそうし)によって築城。

 福岡県中間市に存在した城です。


 名前の由来は

 「敵が攻めてくれば山が高くなり、

  城から攻め下りるときは山が低くなり、

  まるで猫が背を高くしたり低くしたりしている。」

 という、

 猫の背を丸めた形に似ている事から

 名付けらたようです。




「鼠草子(ねずみのそうし)絵巻」

 成立は室町時代前期説もありますが

 15世紀後半で作者不詳。


 鼠が主役の物語で

 鼠と人間が結婚する異類婚姻の物語。

 鼠の権の守(ごんのかみ)は

 畜生道を逃れたいと清水寺に祈願します。


 人間の娘と結婚しますが、

 ある日、

 正体が鼠であったのがバレて娘は出て行きます。


 権の守は娘と復縁を望んでいましたが

 娘は都の人と結ばれ、娘の住む家には

 鼠捕りの名人「猫の坊」が飼われている事を知り

 思い悩むも諦めます。


 鼠は出家を決意し、高野山を目指しますが

 道すがら出会ったのは

 何と、猫の坊ですから驚きますが、

 猫の坊も、出家し高野山を目指していました。


 二匹は仲良く高野山に登り、仏道修行に励んだ。

 という話しで

 「擬人化」された動物たちが活躍する物語です。


 仏教思想が背景にありますが、ユーモラスな話しで

 鼠にも

 何かしら人気に由縁するものがあったかもしれない。



 猫も庶民の間に広まった時代、

 今思えば、平安時代以前の

 遥か昔から文豪や絵師が存在し

 いつの世も

 日本を支える人物と猫模様がうかがえます。

安土桃山時代(1573年~1603年)

織田信長(安土城)と豊臣秀吉(伏見城{桃山})が

政権を握っていた時代であり

織豊時代(しょくほうじだい)ともいう戦国時代。




織田信長(おだ のぶなが)も

 2匹の猫を飼っていたという話しがあり

 信長不在中に

 秀吉が猫にイタズラをした伝えがありますが

 真相は・・・?




豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の命により

 薩摩藩藩主の島津義弘(しまづ よしひろ)は

 1592年からの「文禄の役(ぶんろくのえき)」、

 1597年のからの「慶長の役(けいちょうのえき)」という

 朝鮮征伐へ渡海しする際、

 7匹の猫を従えて渡航しています。


 なぜ、

 猫を連れて行くのかというと

 当時はというより、現在もそうですが

 猫の瞳孔は明暗によって大きさが変わり

 明るい所では細長く

 暗い所では目一杯開いて

 光の入る量を調整しています。


 猫の眼の瞳孔の広さは

 時間帯によって変わるため

 時刻を知る役割(時計)を果たしおり

 出撃の合図に使用したとされています。


 その時

 生還を果たした猫は2匹で

 義弘の次男久保(ひさやす)に可愛がられた猫で

 「ヤス」と呼ばれ、もう1匹は「ミケ」と呼ばれてた猫です。


 2匹の猫が猫神として祀られる「猫神神社」が

 薩摩藩島津家由来の

 児島県の仙巌園(せんがんえん)に存在します。


 猫も戦争に利用され、立ち向かったのですね・・・




1593年

 朝鮮に兵を出し慌ただしい時

 豊臣秀吉が大阪城で

 可愛がっていた猫が行方不明となり、

 重臣の浅野長政(あさの ながまさ)に

 大規模な猫捜索を命じ

 探しても探してもその猫は見つからないため

 浅野は、

 同僚、伏見城の野々口五兵衛(ののぐちごへえ)に

 手紙を出したといいます。(10月19日付)


 内容の一部は、

 「見つかるまで美しい猫を貸してほしい」と

 書状が現存しているようです。




「時慶記(ときよしき)」は

 1587年からの、

 公家、西洞院 時慶(にしのとういん ときよし)の

 日記。


 鼠害対策として1602年8月

 京都所司代の板倉勝重(いたくら かつしげ)により

 京都一条の辻(交差点)に

 高札(こうさつ・たかふだ)が出された事が記されています。

  (高札とは

   板面に法令などを書き、人がよく見る場所に建て

   民衆に伝達するもの)


 「猫の綱を解き放つ事、

  猫を売り買いしてはいない事」を命じています。


 よって、

 鼠の害が激減したと言われていますが

 帰ってこない猫も多くいたようです。

江戸時代(1603年~1868年)

日本の絵師たちが

驚くほどたくさん描いてきたのは

猫図と言ってもよいでしょう。




「千姫(せんひめ)」と言えば

 祖父が徳川家康で 歴代の美貌を受け継いだ、

 美しい姫君として有名です。


 千姫の姿を描いたものとして知られる絵は

 世に二つ、存在するといわれています。


 一つは

 徳川美術館の所蔵する「本多平八郎姿絵屏風」。


 もう一つは

 茨城県常総市の

 千姫ゆかりの弘経寺(ぐぎょうじ)にある

 「千姫姿図(せんひめすがたえ)」は

 千姫壮年時を描いた絵像とて伝えられていて

 そこに

 黒白毛の猫が描かれていますが

 作者・製作年代ともに不明で

 描き方から江戸時代初期の作品とされています。




「猫のさうし」 短編の物語。

 作者、成立年未詳。


 1602年に

 「猫の放し飼い」の お触れが出たのを機に

 猫は喜んだが鼠は困って、ある高僧に訴える話。


 鼠が

 ある高僧の夢枕に立ちに、鼠の気持ちを訴え問答し

 次の日、

 猫が気持ちを訴え問答し

 高層が説法しながら問答は繰り返され

 鼠、猫ともゆずらず、高僧は窮しますが

 お互い、どう生きて行くべきかを問う物語です。


 散々、身勝手に過ごしてきた事に反省する鼠が

 追われる立場になったが、

 猫の振る舞いは、

 犬に追われ、報いがあるだろうという話。


 法話を聞かせるのも主要な所で

 高僧の「因果応報」の思想が伺えます。




1608年に建てられた

 栃木県

 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の

 坂下門(さかしたもん)。


 国宝に指定されている「眠り猫」が彫られ

 裏側には「遊ぶ雀」が彫られています。

 猫の眠りにより、襲われる事も無く

 雀も安らかにと、平和を象徴しており

 「猫も寝るほどの平和」という意味があります。


 伝説的な彫刻職人、謎の人物である

 左甚五郎(ひだり じんごろう)の

 作品ではないとの見解もあり、謎の伝承作品です。




1685年、

 学問好きで儒学を熱心に学んでいた

 徳川5代将軍、徳川 綱吉(つなよし)は

 当時の人々の殺伐とした悪習に対し

 戦国の野蛮な気風が色濃く残っていた時代を

 社会悪是正の策として法令を出します。


 「将軍御成の道筋に

  犬や猫を出しておいてもかまわず

  御成の際であっても犬や猫を

  つないでおく必要はない」というもので

 将軍の御成の道に

 犬や猫が道に出てきてもよいので、

 犬猫を繋ぐ必要は無いということです。


 綱吉には、人々が内心から

 「仁心や慈悲之志をもって

  生類(しょうるい)に接することだ。」と促し

 「生類」を憐れむ

 「仁心」を育むようになれば、

 世の中が治まっていくという考えがありました。


 この令によって、

 猫の売買や

 犬や猫のつなぎ飼いも禁止されます。


 当時、

 牛馬などを山野に捨てたり、捨て子も多く

 病人に対しての政策など

 「捨て子禁止」、「病人の保護」を

 命じた法令も出されており

 「弱者対策」も考え、付け加えて

 「動物愛護」的観念を生み出した政策です。


 しかし、

 時代背景や人々、法令の浸透性も関係しますが

 法令が、魚介類や虫など全ての生き物に及び

 厳しい法令になっていき、人々の反抗する動きもあり

 法令は、年を経るごとにエスカレートし、

 24年間という長きにわたって

 135回もの多数の法令が発令されました。


 その法令の総称が

 悪名高き法令といわれている

 「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」です。


 「生類憐れみ」の法令は、

 綱吉時代以前から存在していますが

 さすがに、

 虫までもの法令や法令数は、ありませんでした。


 この綱吉の

 殺生を戒める思想とも言うべき

 生類憐れみの令に関して、

 詳しくは割愛させて頂きますが

 1687年

 猫がネズミを追って

 江戸城の台所の井戸に落ちて

 猫2匹が溺死したことから、

 台所頭の天野正勝と家来の大原留右衛門が

 責任をとらされて八丈島に流罪になっています。


 その後1709年

 6代将軍となった家宣(いえのぶ)により

 「弱者対策」は、残しながら

 生類憐みの令の規制も順次廃止されました。




「古今比売鑑・薄雲」(ここんひめかがみ・うすぐも)

 月岡芳年(つきおかよしとし)の浮世絵で
 1875年(明治8年)の作品になります。

薄雲太夫

 「比売鑑(ひめかがみ)」は「姫鑑」ともいい

 女性に向けた教訓を意味します。


 1700年7月に350両で身請けされた

 江戸・吉原 (よしわら) の三浦屋の遊女である

 薄雲太夫(うすぐもだゆう)がモチーフ。


 薄雲は、肌身離さないほど、

 大変な猫好きとして知られています。


 薄雲太夫とその愛猫を描いていて

 絵に書かれた文字を抜粋すると

 「三浦屋の遊女薄雲は客を迎える道中でも

  離さないほど猫を溺愛し、

  人々は彼女が猫に魅入られたと噂する。

  千金を持たらす身である彼女が

  店に出られなくては困ると

  三浦屋が猫を引き離すと彼女は床に伏してしまう。

  仕方なく再び猫を返すとその病も癒えたという。」


 芳年も 大変な猫好きとして知られており

 描かれた薄雲の

 カンザシ、着物の柄にまで猫が描かれています。


 猫の名は「玉」。

 猫を抱いて、猫の目鼻あたりを

 こちょこちょしている様な仕草、

 猫の表情は可愛いいものです。


 本来の話は、

 三浦屋の主人により

 薄雲になついた猫が命を賭します。


 それが結果としては

 薄雲を蛇から救ったという報恩談で

 不憫に思った薄雲は猫を丁重に葬り、

 猫の像を作らせたことにより

 招き猫の発祥元とも言われています。



 1757年、成立の

 「近世江都著聞集」(きんせいえどちょもんしゅう)。

 馬場 文耕(ばば ぶんこう)作で

 江戸時代中期の講談師(こうだんし)。


 巻5「三浦遊女薄雲が伝」があり

 上記のように

 薄雲になついた猫話が記されています。



 他にも「薄雲の話し」は

 逸話、物語など、多くの作品があります。




「猫絵の殿様」として知られている

 わずか120石の

 交代寄合旗本(参勤交代を勤める)で、

 岩松家の

 18代・岩松温純(あつずみ)[1738~1798年]

 19代・徳純(よしずみ)[1777~1825年]

 20代・道純(みちずみ)[1797~1854年]

 21代・俊純(としずみ)[1829~1894年]の4代殿様。


 1700年代後半から1800年代にかけて

 大量の「猫絵」を描き続けた殿様たちで

 特に

 「八方睨みの猫」

 「新田猫」

 「万次郎の猫」などと呼ばれる猫絵は有名です。


 養蚕農家が盛んなこの時代

 猫が貴重で少なかったために

 ネズミ除けに

 猫絵を床の間に掛けたり、柱に貼る習慣があり

 お殿様の描かれた猫絵なら

 絶大な効果があると信じられ

 養蚕農家の間で重宝されました。


 今でも

 直筆の署名入りの猫絵が現存します。


 岩松俊純は、

 明治になって男爵となっていまので

 猫様々なのではないでしょうか・・・




「よしの冊子(よしのぞうし)」

 水野 為長(みずの ためなが)の

 世情を大名に伝えるために記録した「風聞書」という

 各地の噂話を収録した書。


 1791年の記述には

 1772年頃、ネズミが異常発生したようで

 「猫至りてはやり、逸物の猫は金七両弐分、

  常の猫五両、猫の子は二、三両ぐらいの由」と

 猫の価値は、一時高騰した記録があります。




「猫のノミとり屋」を記する書に

 「西鶴織留(さいかくおりどめ)」遺稿集(1694年刊)

 「燕石雑誌(えんせきざっし)」随筆集(1811年刊)

 「守貞謾稿(もりさだまんこう)」参考書(1837年~)

 などがあり

 それらの記述によると

 江戸時代の中期頃

 「猫のノミとり屋」が

 実際にあった商売であると記述されています。


 その、ノミとり方法は、

 まず猫を湯浴みさせ

 濡れたままの状態で、狼の毛皮に包んでおくと

 猫に寄生したノミは、

 自然にその毛皮に移っていくという方法で

 ノミの習性を利用したもので?

 その効果はさておき

 毛皮に移ったノミは、

 その近辺で払い落としたとものです。


 1匹の猫につき2文~3文。

 しかし、

 この商売は、割に合わず、

 害虫駆除の猫にそこまでする飼い主も少なく

 あまり長続きしなかったようです。




「甲子夜話(かっしやわ)」

 松浦 清(まつら きよし)の随筆集(1821年~)。


 一文に

 「奥州は養蚕第一の国にて鼠の蚕にかかるを防ぐとて、

  猫を殊に選ぶことなり。上品の所にては、

  猫の価金五両位にて、馬の価は金一両位なり。」

 奥州は

 福島・宮城・岩手・青森県と秋田県の一部。


 良い猫の価格が一時期、

 馬の5倍の値が付く程、必要な猫となってます。


 貧しい農村にとって

 諸藩が養蚕事業を促進していました。


 後に、重要な産業となって行きますが

 やはり、鼠による被害が多い為に

 養蚕の盛んな地域では、猫は希少価値が高く

 大変貴重な猫でありました。



 また、

 「猫踊り」の話も出て来まして

 長年飼っていた猫が

 「首に手巾(てぬぐい)をかぶりて立ち

  手をあげて招くが如く、

  そのさま小児の跳舞ふが如く。」


 後脚で立ち、手招きするようなしぐさで

 子供が跳ねているようだと言う事です。


 曰く

 「然らば、世に猫の踊りと謂ふこと妄言にあらず。」で

 締めくくられていまして、

 猫踊りですから、化け猫の話しなのですが

 そんな事、信じるなって!最後に言っています。




「朧月猫乃草紙(おぼろづきねこのそうし)」

 山東京山(さんとう きょうざん)作、

 歌川国芳(うたがわ くによし)画の

 猫好きの二大スターが作り出した

 娯楽作品(1842年~)。


 カツブシ問屋の飼い猫「とらさん」と

 駆け落ちしたメス猫「おこまの」の

 猫たちの冒険活劇一代記です。


 2人?2匹は、

 お屋敷の縁の下に住みつこうとしますが

 とらさんは、犬に追われて失踪。


 おこまは、

 屋敷のお姫様に拾われて、優雅な生活でしたが

 姫様の膝の上で粗相をしでかし、

 屋敷を追い出されてしまいます。


 それから

 おこまの、とらさん探しが始まります。




「愚雑俎」(ぐざっそ)

 田宮仲宜(たみやちゅうせん)の

 戯作(げさく)という、江戸で興った読み物の総称。

 本人没後の1833年刊。


 江戸時代中~後期に書かれたものと思われる

 一文に

 「大船には鼠多くあるものなり。

  往古仏経の舶来せし時、

  船中の鼠を防がんために猫を乗せ来る事あり」

 と記されています。


 盛んに経典が輸入されたのは1000年前の事。


 いつの時代を指しているのか?

 何かの資料があったのか?定かではありませんが

 仏経伝来の時、害獣駆除として

 猫を船に乗せてきたということです。




橘 守国(たちばな もりくに)

 江戸時代中期の「大坂」で活躍した

 狩野派(かのうは)の町絵師で

 多くの絵本も出版しています。


 「火桶(ひおけ)に猫」の画では

 香炉の上で上部にて

 気持ちよさそうに寝ている様子が伝わります。



 狩野派(かのうは)とは

 幕府の御用絵師として、室町時代中期から

 約400年にわたって活動した職業画家集団。




「枕辺深閏梅(ちんぺんしんけいばい)」

 歌川派である

 歌川 国芳(うたがわ くによし)の

 江戸時代末期の浮世絵師。


 1839年刊とされる

 この作品は「艶本」ですが

 下巻口絵(くちえ)に

 後ろ向きの自画像が描かれており

 猫に囲まれて

 作画をしている様子が描かれています。

枕辺深閏梅

 国芳の周囲には

 常に数十匹の猫が居たそうで

 国芳の自画像は、

 ほとんどが本人は後ろ向き姿です。


 稀代の猫好きとして知られる人物で

 居間には

 猫の位牌に戒名が書かれた仏壇があったようです。




 「其のまま地口 猫飼好五十三疋」

 (そのままぢぐち みやうかいこうごじうさんひき)

 1848年の作品は

 東海道五十三次の宿場の町名を、

 地口(語呂合わせ)で、猫の動作を描き

 草津は「こたつ」、沼津は「なまず」などの語呂で

 70匹以上の猫の姿が描かれています。



 また

 「猫の当字絵」という

 文字の成り立ちを猫の絵で表現している猫画は、

 猫はがクネクネしていて発想がユニークです。

当字絵


 奇想天外なアイデア、ダイナミックな構図で

 擬人化した動物たちの作品も多く

 作品の多さでは他の絵師の域を抜いています。




「於竹大日如来之由来」猫の図

 (おたけだいにちにょらいのゆらい)

 1849年

 歌川 国麿(うたがわ くにまろ)の作

 江戸時代末期から明治時代初期の浮世絵師。


 大日如来の慈悲深さを表現するため

 犬や猫を加えて描く事が多かったといいます。

於竹大日如来之由来

 江戸庶民の間で「生き仏」と慕われた

 佐久間家の女中奉公「お竹さん」。


 お竹さんは、1622年、

 手向村(現鶴岡市羽黒町手向)生まれ。


 お竹は、信心深く

 食べ物を大切に扱い

 自分の食べ物を減らしては

 飢えた人や動物に与え、

 自分は台所の残飯を食べていたそうです。


 1672(寛文12)年?

 そんな慈悲深い、お竹のもとを訪れた

 湯殿山行者と羽黒山伏は

 「お竹は、大日如来の化身である」と告げ

 拝んで帰りましたが、

 お竹は、数日後亡くなったそうです。


 主人は、お竹を偲び

 献身的な奉公に報いるため

 大日如来像を作って供養し

 この話が江戸中で評判になり

 たくさんの人々が、如来像を拝んだそうです。


 その後、お竹の生まれ故郷である

 羽黒山麓に祀ったほうが良いとなり

 羽黒山正善院黄金堂(山形県)の境内に

 「於竹大日堂」を建てて安置しました。



 違う文献によっては

 お告げの後は、女中奉公をやめ

 念仏に専念し、人々の悩みを聞き

 仏の道を説き、江戸中で評判になり

 1680(延宝8)年、

 58歳でこの世を去ったという話しもあり

 年号、名前、内容などに違いがありますが

 お竹さんの話は、たくさんの歌、川柳、

 浮世絵、歌舞伎の題材になっています。




「浅草田甫酉の町詣」第101景

 (あさくさたんぼとりのまちもうで)

 1857年作、

 歌川広重(うたがわひろしげ)の

 江戸時代末期の浮世絵師。


 「名所江戸百景」

 (めいしょえどひゃっけい)という

 日本各地の名所を描いた

 その中の一枚である第101景。

浅草田甫酉  

 猫は首紐を付けられず描かれ

 二階の格子窓から夕日を眺めているのか?

 それとも

 田んぼの中の行列を眺めているのか?


 お題の町詣から察するに、

 猫は、人波の行列を見ていると思われ

 猫の背が哀愁に満ちた作品です。


 場所は

 吉原で働く女性の控屋があったところで

 浅草新吉原の後方にあった水田地帯が

 浅草田圃(あさくさたんぼ)で

 吉原田圃(よしわらたんぼ)ともいわれた

 現在の台東区近辺。


 行列は

 浅草にあった

 鷲大明神社(おおとりだいみょうじんじゃ)の

 「酉の市」からの帰りの参拝客で

 縁起物の熊手を担いで歩く数えきれない人々。


 猫の姿は「きめ出し」という浮出しの技法を用い、

 半立体的に見えよう、紙の表面を盛り上げています。




「与ハなさけ浮名の横ぐし」

 (よわなさけうきなのよこぐし)

 落合 芳幾(おちあい よしいく)

 または、画姓

 歌川 芳幾(うたがわ よしいく)といい

 幕末から明治の浮世絵師で

 明治時代では新聞の挿絵画家として活躍。


 1860年作で
 
 歌舞伎役者の顔を

 猫に似せて描いた作品。

与ハなさけ浮名の横ぐし

 「与話情浮名横櫛」

 (よわなさけうきなのよこぐし)

 とは

 歌舞伎の演目のひとつで

 1853年5月、江戸中村座にて初演され

 それがモチーフになっています。




「衣襲明神(きぬがさみょうじん)之像 鼠よけ」

 楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ)の

 江戸後期の作品。

 
 歌川 国芳に絵を学んだ

 江戸時代末期から明治時代にかけての

 美人画に優れていた浮世絵師。
 

 衣襲明神は、蚕の神様で

 蚕や鼠を捕らえる猫が描かれています。
 



 江戸時代末期からは

 このような作品が

 富山で刷り始められ

 富山の薬売りが、お得意先への土産、

 おまけとして配られたようです。


 多色摺の浮世絵版画の一つで

 売薬版画といわれたものです。



 浮世絵は江戸時代に成立した絵画で

 筆で描く肉筆浮世絵もありますが

 一般的には多色摺りの浮世絵版画を指し

 日本では17世紀以降の絵師たちは

 猫をこよなく愛し、猫をたくさん描いていました。



猫が描かれた浮世絵の作品の数は

膨大にありますので、この辺にて・・・




「篤姫(あつひめ)」こと

 「天璋院(てんしょういん」)。


 幕末から

 明治の激動の時代を生き抜いた女性です。


 三毛猫を「さと姫」と名づけて

 たいそう可愛がりました。


 さて、この話は続くのですが

 時も明治時代となり

 益々、猫は登場しますので

 ひとまず

 明治時代以降の猫歴史の話しは

 「後編」とさせて頂きます。


 「ドラえもん」が登場するまでには

 まだまだ、

 先の話になりますね・・・


 こうして、

 江戸時代には「日本猫」として固定され

 激動の幕末から明治時代を迎えるわけですが

 人の事情に係わらず

 動物たちは生を繰り返し

 共に時を過ごしてきました。

招き猫の発祥

「招き猫」は、江戸時代に登場する

猫の置物の縁起物玩具で

養蚕守護の鼠除けの猫とされていました。


由来は諸説あり

「招き猫の元祖」と

どこもかしこも元祖と言い伝えられ
 
右手を挙げているもの

左手を挙げているものと様々です。




大渓山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)説

 東京都世田谷区にあり、前号は「弘徳院」。


 1650年の末頃

 当時、

 貧乏寺であっても和尚は

 猫をこよなく愛していました。


 ある日

 鷹狩りの帰りの彦根藩二代目藩主である

 井伊 直孝(いい なおたか)に

 貧乏寺の猫が

 しきりに手招きしているので

 猫に誘われた直孝の一向は寺で休憩します。


 すると、

 一天、猛烈な雷雨となりました。


 和尚は、その間、冷静に説法して

 過去・現在・未来の3世にわたって

 原因があって結果が生じるという

 三世因果(さんぜいんが)の説法をし

 直孝は

 猫に招き入れられ「雨を凌ぐことができた」。


 和尚の法談にも

 「これもひとえに仏の因果なり

  これからも気易くお参りする」と言い

 帰って行きました。


 直孝は貧乏寺に多くの寄進をし

 井伊家の菩提寺ともなり、寺は繁栄し

 猫の恩に報いて

 「福を招く寺」として有名になり

 後に、

 招猫堂が建てられ

 「招福猫児(まねぎねこ)」を作り

 守り神として祀ります。


 これらの猫話をモデルにした、ゆるキャラが

 彦根城のマスコット「ひこにゃん」です。




今戸焼説

 「武江年表(ぶこうねんぴょう)」

  1590年~の郷土誌や


 「藤岡屋日記(ふじおかやにっき)」

  1804年~の日記によると


 1852年頃

 上記、二つを比べると内容は違うものの

 老婆の夢枕に現れた猫のお告げを原型に

 浅草の今戸焼の土人形として作られ

 「招き猫」や

 「丸〆猫(まるしめのねこ)」とよばれ

 現在の浅草神社の鳥居辺りで売られ

 招き猫ゆかりの場所とされています。


 当時、丸〆猫を売る様子は

 歌川広重(うたがわ ひろしげ)の

 「浄るり町繁花の図 4」に

 「丸〆猫屋」が描かれています。

浄るり町繁花の図

 現在までのところ、出土記録などから

 今戸焼の招き猫が、造形作品として実在した

 「最古の招き猫」とされてます。




自性院(じしょういん)[無量寺]説

 東京都新宿区にあり「猫寺」として有名。


 時代は遡り、1477年の室町時代後期

 江古田・沼袋原(えごたぬまぶくろはら)の戦いで

 江戸城武将、太田 道灌(おおた どうかん)は

 劣勢となってしまい、日も暮れ道に迷うと、

 黒猫が現れ手招きをし、

 「自性院」に道案内してくれます。


 無事に一夜を過ごし

 体制を整えた道灌は、勢いを取り戻し

 見事、勝利を収めました。


 その黒猫を

 江戸城に連れ帰って、大切に育て

 黒猫が亡くなった、その後

 自性院に「猫地蔵」を奉納しました。


 「道灌招ぎ猫」と呼ばれるようになり

 自性院で誕生したという説で

 本当なら、招き猫の最古の説になりますね・・・



 もう一つ、自性院説があり

 1767年の江戸時代中期に戻りますが

 貞女として名高かった

 金坂八郎治(かねさかはちろうじ)の妻である

 「守(もり)」は、豪商・加賀屋舗の娘で

 貞女の鑑(かがみ)といわれ

 猫を可愛がっていたそうです。


 その徳を偲び、冥福を祈るため、

 貞女の誉れを後世につたえたいと

 鮱屋弥平(ぼらややへい)が

 猫面の特徴的な地蔵像を奉納しており

 猫面地蔵と呼ばれています。


 自性院の

 節分会(せちぶんえ・せつぶんえ)である

 毎年2月3日のこの日だけ

 「秘仏の猫地蔵」として、2体が開帳されます。





檀王法林寺(だんのうほうりんじ)説

 京都市左京区にある黒招き猫。


 1603年、檀王法林寺に

 主夜神尊(しゅやじんそん)が光に包まれて現れ

 日本で初めて現れたところと言われ

 祀られるようになりました。


 主夜神(しゅやじん)尊とは

 「主夜」を「守夜」と解して、

 悪夢除け、盗難除け、火災除け、五穀豊穣など

 夜の恐怖を除き、夜を守る神として、祀られています。


 この主夜神の御使いは

 闇夜に眼を光らせる「黒猫」とされています。


 江戸時代中期

 主夜神尊の銘を刻んだ黒色の「招福猫」が作られ

 寺社関連の招き猫としては

 持っとも古いのものとする説があります。


 日本最古の伝承をもつ、黒招き猫の寺として、

 毎年12月の第1土曜日に

 「招福猫・主夜神大祭」が行われ

 招福猫のお守りが頒布されています。




伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)説

 京都府京都市伏見区の土人形(つちにんぎょう)。


 全国に3万社あるとされる稲荷社の総本宮で

 五穀豊穣の神々を祀る

 稲荷山全体を神域とする神社です。


 伏見稲荷大社で

 招き猫が飾られているのではなく

 稲荷山の土は霊験あらたかで

 五穀豊穣のご利益があるとされることから

 土を持ち帰る風習があり

 伏見稲荷大社周辺に住む人をたちが

 土を丸め、粒状に作って売るのを

 「粒粒(つぼつぼ)」と言っていました。


 その後

 人物や動物など、形あるものに変化し

 土産物や子供の玩具として

 伏見の素焼の土人形が珍重されますが

 古くは、

 弥生時代後期243年頃

 第11代天皇、垂仁天皇(すいにんてんのう)により

 この伏見において、土器、土偶を創っており

 その流れが

 長きに渡り、土人形に発展していったと思えます。


 招き猫の土人形は

 江戸時代末期に出現して人気を博し、

 土産物として全国各地に広まったとされます。


 蚕神(かいこがみ)も祀られていることから

 多くの養蚕農家が、伏見大社に参拝し

 鼠封じの縁起物として、「招き猫」や

 「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」の

 短文があるように「七転び八起き」にあやかり

 「ダルマ」を購入したようです。


 招き猫の発祥というより

 土人形発祥の地ですね。




小林山達磨寺(だるまじ)説

 群馬県高崎市にある達磨大師出現の霊地。


 昔は

 観音様を祀るお堂だけでした。


 ある時、

 達磨大師が夢枕に現れ、

 「鼻高の聖地に霊木があるから

  坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい。」

 という、お告げにより、

 1680年、

 鼻高村であるこの寺に、

 一了(いちりょう)という老行者が

 たずねてやってきます。


 心を込めて最高の彫り方で

 「達磨座像」を彫り上げ、お堂に安置し

 たちまち近郊近在に知れわたりました。


 これが

 達磨寺の由来です。


 江戸時代中期に

 九代目住職、東嶽(とうがく)和尚が、

 福運を迎えるお守りとして、

 木型を彫り張り子達磨を考案します。


 貧窮する農民を救う為、

 農閑期の副業として作らせ

 七草の縁日に売らせたところ評判となり

 「福だるま」の始まりといわれ

 縁起だるま発祥の寺とされます。


 当初は「坐禅だるま」で

 言葉通りの置物的なスタイルから

 次第に

 繭(まゆ)の形に似た「繭型だるま」になり

 養蚕農家も多い地域ですから

 蚕の起き(目覚め)と七転び八起きにあやかって

 蚕が良い繭を作るようにと「だるま」が広まります。


 「だるま」と共に

 盛んな養蚕農家の縁起物として

 蚕の鼠害の防御と豊蚕を願って

 張り子の「招き猫」が作られたようです。


 少林山達磨寺では正月6日、7日に

 「少林山七草大祭だるま市」が開かれ

 「だるま」や「招き猫」などが販売されます。



まだまだ、招き猫説は存在します。

また、

招き猫のモデルは、

「猫が顔を洗う」と言われる

毛繕いをする時の動作ではないか?

という説もあります。

まとめ

今日では愛玩動物として

世界各国で広く人間と交流してる猫。


イエネコの先祖は、約13万1000年前

中東の砂漠などに生息していた

「リビアヤマネコ」であり

「アフリカヤマネコ」とも言いわれ

後に人間が

「イエネコ」につくりあげた家畜です。


世界最古のものとしては

東地中海沿岸にあるキプロス島の

約9500年前の墓から

猫の骨が発掘されたことで、石器時代には

猫が存在していたことになり

エジプト起源説が覆るなど

今後も

古代から究明される猫史でもあります。


この猫文化は

長い間に渡って、ネコの足跡と共に

知らず知らずのうちに

日本民族の一部分になりました。


古代から、

ブームを巻き起こし

愛でられ、様々な怪猫としても存在し、

古くから日本の生活にかかわり

重要な影響を与えている猫。


誕生から一万年、

悩んだら猫に相談しろという感じで

正に、猫の国日本を象徴しています。


もしかすると

猫が

日本を創ったのかものかもしれません。


猫は昔から変わっていません。

人間や社会が変わってしまったのです。


今の人間社会は

イジメ、ハラスメント、ストレスなど

悩みは絶えず、非常に窮屈な社会で

疲れている人が多く

自由に自然にさえも生きられない現状が

猫の

気ままで媚びない自由な生き方に

あこがれや魅力、望みを感じます。


動物の幸せな姿を見ると、

人間は自然に癒されます。


猫が暮らしやすい社会は

人間も暮らしやすい社会となり

疲れや気持ちを癒してくれる

しいては

幸せだと言う事です。

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